命は平等か。大切な人の命と見知らぬ他人の命の価値は同じか。少なくとも「その人」にとっては決して平等とはいえない。ニュースの死亡事件・事故には平然としながら、好きな作家や歌手の訃報に嘆き悲しむのは偽善だろうか。
儒教が説く「他愛」
2023年5月28日。日本ダービーに出馬した競走馬、スキルヴィングがゴール入線後に倒れ、その後急死した。スキルヴィングの死に多くの競馬ファンがその死を悼んでいるという中、元騎手の競馬予想家がそんな感情は「偽善者」だと批判した。競馬で楽しみ金を儲け、牛や馬の肉を食べておきながら、スキルヴィングの死には涙することに強い怒りを覚えたようである。競馬を愛する者の愛情故だとは思うが、これを偽善というのは厳しいものがある。
筆者は以前、心の距離と命の不平等について(「葬儀は大切だった人の葬儀ばかりでなく義理や代理で参列する葬儀もあるが」2018年7月23日)書いたことがある。この時に例を挙げたのがやはり競走馬のハマノパレードの一件だった。ハマノパレードは宝塚記念を制したこともある日本の競走馬だが、次の出走で骨折・予後不良となり、翌日屠殺された。その馬肉は同日中に「さくら肉」『本日絞め』400キログラム」という品目で市場へ売りに出されたことがスポーツ新聞に取り上げられ物議を呼んだ。
なるほど、私たちは牛肉や馬肉を食べる。一方で競走馬の死を悲しみ、「ドナドナ」を聴いて子牛が売られていく情景に涙ぐむ。確かに矛盾であり偽善かもしれない。しかし当然のことでもある。牛肉も馬肉も私たちには単なる食料だ。しかし競走馬や「ドナドナ」の子牛には愛情や同情が移り、もはや関わりのない他者ではない。家族友人とは言わなくても、ただの「牛」「馬」以上の存在である。心の距離が違うのだ。これを孔子が開いた儒教(儒家)では「別愛」という。
儒教では家族や近親者のように自分に近しい存在により多くの愛情を注ぐことを説く。例えば自分の子供より大切な存在があるだろうか。自分の命と引き換えに子供が救えるなら喜んで死を選ぶのが親である。ある小学校で「食育」と称して自分たちで育てた豚を食べる取り組みが行われたことがあるが子供には酷ではないか。むしろ、ステーキは食べられるのに、自分たちで育てた豚は食べられない理由を考えさせるべきだった。ステーキには食欲はあっても愛情はないが、育てた豚には愛情が宿っている。これが別愛である。人間の勝手な感情だと言うかもしれないが、事実、競馬ファンにとってスキルヴィングはただの馬ではない。その死を悼むのは善悪以前の自然な感情ではないか。
仏教が説く「渇愛」と「慈悲」
儒家の「別愛」に異を唱えたのは墨子の平等・博愛主義だったが、日本では仏教がその役を担った。仏教は様々な愛を説くが特に「渇愛」と「慈悲」が挙げられる。仏教では特定の人物・対象を愛することは、その人・物を自分のものにしたい、それ以外の誰かがどうなろうと構わないという独占的独善的な欲望である。愛するが故にその対象に執着し、どんなに満たされても満足できず、より多くを求める。そのために道を踏み外すこともある。そして失ったときの悲しみは計り知れない。人間が背負う苦の根源、業、罪。それが「渇愛」である。
これを表しているのが釈迦の10大弟子のひとり目連の救母物語である。「神通第一」と言われた目連はその神通力で死んだ母親が餓鬼道に墜ちていたことを知る。飢えた餓鬼と化した母親を救いたい目連が釈迦に乞うと、すべての修行僧に食べ物や飲み物を捧げるように言われ、その通りにすると母親は餓鬼道を脱したという。母親は徳の高い賢母だったが、目連が在家の人たちに食べ物を乞う乞食行の際、他の修行僧より多くの食べ物を与えるなどした。自分の息子さえ良ければよいとする偏った愛情、「渇愛」によって母親は餓鬼に墜ちた。そして「母親」だけを救いたい目連も同様で、釈迦は「すべての」修行僧への布施を課したのだった。特別な誰かではなく、すべての生きとし生けるものへの深い愛情が「慈悲」である。人間の狭量な「渇愛」を退け、仏の広大な「慈悲」の尊さを説いたのがこの物語であった。「渇愛」は「別愛」の否定的な面を指摘しているといえる。
人の道と仏の道
現実的な「人の道」を説く儒教と、超越的な「仏の道」を説く仏教は対立し論争が繰り広げられた。どちらかが正しいというわけではなく、「別愛」はリアルな感情であり「慈悲」は目指すべき理想だといえる。しかし「仏の道」はやはり厳しい。わが子への愛情に執着するのは罪だ、競走馬や育てた豚に同情するのは偽善だと言うのは無理がある。「他愛」を捨てることは人の道を捨てることだ。かといって「別愛」で開き直って終わりでもないのが人間の複雑さである。自分に関わりのない人が道端で倒れていて、助けようと思う感情が芽生えればそれは「他愛」ではなく「慈悲」の心であるように思える。
「間」の存在
親鸞は人間は皆罪人であり自力では罪からは逃れられない、だから仏の慈悲にすがる以外救いの道はないと説いた。一方、儒家の孟子は「他愛」の距離を近い者から遠い者へ拡大していくべきだと説いている。人間は「仏の道」を仰ぎつつ「人の道」を歩く「間」の存在なのだ。私たちは特別な対象への愛情や同情を捨てられないが、時には立ち止まって考えることも必要だろう。
参考資料
■「人間のエゴで博打の駒にして...都合良すぎ」 スキルヴィング急死、競馬ファンに元騎手激怒「偽善者大嫌い」J-CASTニュース 2023年05月30日