五穀豊穣を願い神に供物を捧げる神事や、女人禁制の霊場。宗教的背景を持つ伝統行事や土地などは、動物愛護やジェンダーといった現代の価値観に照らすと非合理的な野蛮な迷信と映るようだ。こうした動きは近年の葬儀、法事の簡略化とも無関係ではない。宗教は時代の流れにどう向き合うべきか。

上げ馬神事と動物虐待
三重県桑名市の多度大社で700年の歴史を持つとされる「上げ馬神事」について、馬への虐待に当たるとの批判が相次いでいる。以下は産経新聞の記事を抜粋する(揺れる700年の伝統 三重・桑名の「上げ馬神事」は動物虐待か(産経新聞 5月12日)、「上げ馬神事」で転倒の馬、安楽死に 多度大社が見解公表)。
ー「上げ馬神事」は馬が人を背に乗せ土壁を駆け上がり、壁を越えられた回数で農作物の豊凶などを占う伝統行事。近年は動物愛護の観点から問題視されることも多くなった。コロナ禍のため4年ぶりの開催となった今年は、1頭が骨折のため獣医師が安楽死させたといい、「神事や伝統だからと動物虐待を許してはいけない」「時代遅れで廃止すべき」といった批判が相次いだ。一方で「後世に引き継いでもらいたい」「命を大切にする形に変えて継承すべき」と伝統の継承を望む声も少なくない。
多度大社は「動物愛護法をはじめとする関係法規を順守し、歴史的価値、文化的価値が損なわれることのないよう努める」としているが、近年の動物愛護意識の高まりに伴い、伝統文化にも見直しを迫る動きは各地で相次いでいる。上げ馬神事も、時代の波にのみこまれていくのだろうか。それとも時代に即した変化を受け入れ、姿を変えていくのかー
柔軟な姿勢が求められる宗教
諸葛孔明が蛮族の悪習を改めるために人の頭の代わりに土饅頭を投げ込んだという話がある。南蛮を平定した孔明が帰路の途中、河が氾濫して渡れない状態だった。すると現地民が「49人の頭を贄として捧げれば河の神が鎮まる」と進言した。仰天した孔明は、小麦粉をこねて人の頭に見立て、その中に牛や羊の肉を詰めて頭の代わりに捧げるよう指示した。するとまもなく氾濫は鎮まった。治まるべくして治まっただけだが、南蛮の民は孔明の知恵と術に感嘆し、以後は土饅頭を供物にすることが定置した。これが饅頭の始まりだと言われている。
剥製にかわった御頭祭
贄といえば長野・諏訪大社の「御頭祭」は鹿や動物の頭を贄として神に捧げたという神事である。神長官守矢史料館にある、うさぎの串刺しの剥製などはかなりの衝撃を受ける。それも現在では剥製が使われている。生首がいつ剥製に代わったのかは不明だが、そのことによって徳川綱吉ですら畏れたという諏訪大社の神の怒りは特になかったようである。基本的に日本古来の神々は血を穢れとして嫌い清浄を好むが、中には諏訪大社をはじめ血肉を好む神を祀る神社もある。おそらく弥生農耕文化に埋もれた、縄文狩猟文化の流れだと思われる。彼らにとって他の生命は生きるための食料であり、それを与えてくれる神への感謝として贄を捧げるのは当然であった。このような神事は命を軽んじているどころか、生命への感謝を表したものといえる。しかし現代の価値観に合わせて柔軟な姿勢で対応する必要はあるだろう。
現代の価値観という外圧
一方で、時代と共に神事の形式を変えるにしても、そこに至る道筋は熟慮しなくてはならない。伝統行事を迷信と断じたり、現代社会の価値観を無理に押し付ける、極端な主義主張を掲げる活動家らの外圧によって変えられるのはいかがなものか。諏訪大社では元旦に「蛙狩神事」が行われる。蛙を生け捕り矢で射殺し、贄として捧げるもので、こちらは御頭祭のように剥製にはなっていない。これについての抗議運動で動物愛護活動家が、蛙を生け捕る御手洗川に飛び込むなどの暴挙に出たことがある。
女人禁制に無断で侵入
また、数年前に人権団体が女人禁制である修験道の聖地・大峰山に無断で入り込んだことがあった。いずれにしても神仏への畏敬の念が全く感じられない、罰当たり以外の何物でもないように感じる。こうした行為に及ぶ者の意識に、宗教的な行為や場所を非科学的で愚かな風習だとして否定する現代的価値観があることは明白だ。蛙狩神事について、神が贄を好むからなどと反論すれば、彼らは馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだろう。現代の価値観を絶対的な正義だと振りかざすような外圧に屈してしまえば、あらゆる神事、仏事は無意味になってしまう。「動物愛護」「人権」などの美名の下に、宗教的な原理が問答無用で滅ぼされることがあってはならない。
現代の価値観との距離
神事に比べて仏事は、仏教が殺生を禁じるためまだ状況は穏やかだが、かつて女人禁制だった比叡山や高野山は近代化を推し進める明治政府の圧力により解禁されたという。近年は葬儀や法事も簡略化されつつある。法然は念仏に一切の障り無しと言った。法然であれば馬や鹿を殺さなくても、阿弥陀仏の慈悲に変わりはないというだろう。守るべきは精神であり、その形式は現代の価値観と共に変わってもよい。しかしそれは神仏への畏敬の念を持たない外圧に屈することとは別のことである。外圧ではなく宗教の側が自発的に思考し柔軟になることを求めたい。