大切な人を亡くした時、生まれ変わってまた出会いたいと願う人は多いだろう。死んだらどうなるのか、そんなことは死んでみないと誰にも分からないことだが、生まれ変わりということは案外考え方として浸透していて、わたしの前世はヨーロッパの貴族だったらしいわよ、など普通に話している人も見かけたりする。2008年の「”生まれ変わり”はあると思うか?」という国際調査に対して、日本人は43%があると回答。アメリカでは31%だったというから日本人の方が明らかに肯定している割合が高い。ではその生まれ変わり、また前世についての科学的考察、宗教ごとの考え方をまとめてみよう。
生まれ変わりを表す考察1
生まれ変わりがあるという一つ目の証拠として、まずは、前世の記憶のように思われる事柄を話す子供がかなり大勢いるということがある。
アメリカのヴァージニア大学医学部知覚研究室主任であったイアン・スティーヴンソンは、生まれ変わり現象についての研究を行い『前世を記憶する20人の子供』を出版した。現在までに彼の研究グループは前世の記憶を持つとされる2600もの事例を収集している。
この調査によれば、子供たちが前世を語り始めるのはおよそ2歳10ヶ月ごろだが、その記憶は8歳までに大部分が消失してしまうとのこと。また、前世で会ったと子供が語った人を調査した際、その人が実存していたケースはなんと70%以上だったそうだ。
しかし、この時期の子供は親や権威者の言うとおりにしがち、いわゆる空気を読む行動をとりがちであり、ファンタジーの世界に生きている。たとえば、親が、「ほら!あの月の中にウサギが見えるでしょう?」と言ったならば、「見えるね」と同意しがちなのだ。なので、全く実験の意図を知らない医者等が調査した方が結果は正確なのではないか、などの疑問を唱える学者もいる。
生まれ変わりを表す考察2
第二の証拠としては、退行催眠という手法によって過去世を思い出すことが出来たという数々の症例だ。これは、催眠状態において記憶を前世まで逆行させ、心的外傷、更には慢性の病気を取り除くという療法として確立されており、アメリカの精神科医ブライアン・ワイスや、カナダトロント大学のフロイト派精神科医、ジョエル・ホイットンらによって提唱された。このようなアプローチはヒプノセラピーもしくは前世療法として日本でも各所で行われている。
しかしこの催眠により想起される記憶はそもそも虚偽なのではないか、もしくは本など過去に目にして得た情報を本人も忘れていて話したりしているのではないか、といった疑念があることは否めない。実際そのようなことも中にはあるであろう。しかし退行催眠によるセラピーや想起される記憶の全てが荒唐無稽であるかと言えば、そうとも言い難い事例も紹介されている。全く知らなかった情報がそれにより語られたり、複数の人間の過去世の記憶が一致すると言った報告も上がっているのだ。
生まれ変わりを表す考察3
第三は、間接的な証拠ではあるが、過去の偉大な思想家たちの多くが生まれ変わりを肯定していた、ということだ。古くは古代ギリシャのプラトンやピタゴラスも生まれ変わりを肯定していた。プラトンは、私たち人間の魂は不死であり永遠なる輪廻と転生の円環を繰り返すとした。また、ピタゴラスも人間の魂は本来不死で、それは元々神的なものであるが現実には堕落し、肉体(ソーマ)という牢獄に閉じ込められている。そしてその神性を取り戻すまで輪廻転生を繰り返すのだ、とした。この生まれ変わり思想は古代インド哲学で見られたもので、仏教やジャイナ教に引き継がれていった。インドの思想では限りなく生と死を繰り返す輪廻の生存を苦とみなし、ニ度と再生を繰り返すことのない輪廻からの解放を最高の理想とした。
欧州に戻すと神秘思想家のルドルフ・シュタイナーは教育学や建築学などさまざまな分野で活躍されたが、彼は”人間は精神的、霊的進化のために転生を繰り返す”としている。
また、現代を生きる有名人でも前世について公言している人は多い。ビートルズのジョン・レノンは自分はイエス・キリストの生まれ変わりだと話していたそうだし、俳優のシルベスタ・スタローンはフランス革命時に生きていたと考えており、ギロチンを見ると心が休まると話しているという。更に歌手のティナ・ターナーは、前世は古代エジプト時代の女王であったと語っているそうだ。他にもこのように前世を信じると公言している有名人は多くいる。
生まれ変わり仮説の難点
人口の観点から生まれ変わりを否定している人がいる。初期の頃の地球人口は約3億。現在地球の総人口は79億に達しており、その増加分の命はどこから来たのか?という主張だ。それに対して肯定派は魂が分裂しているとか、生まれ変わりの先は人間ばかりではないとか唱えている。
また臨死体験などは脳の再起動により脳が混乱している時に起こるものだ、とする科学者もおり、彼らからしたら前世の記憶も脳が無意識に新たな記憶を作っているということになる。
そもそも生まれ変わりなんて、非科学的だ、とはじめから切り捨てる人も多いことだろう。しかし科学者の武田邦彦氏は魂や生まれ変わりについて、科学的にあるか無いかの証明はいまだ出来ていないとしている。現段階ではどちらとも、なんとも言えないのだ。
キリスト教、イスラム教の生まれ変わり
キリスト教では死んだら裁きを受けることが、定められているとされ、輪廻転生は否定されている。初期キリスト教思想では輪廻転生の存在も認められているようだが、基本的には人の命は神からの借り物であり、運命は偉大な神の手の内にあるのだ、という予定説が採用されている。そして死後は神のみもとに帰り永遠の命をあずかるということであるから、死に対しては究極、肯定的立場を取っていると言える。
これは同じく一神教のイスラム教でも同様で、死は終わりではなく現世よりも貴重な来世への登竜門だとされている。つまり、簡単にいうと、どちらも”人間の一生は神の支配下にあり、信仰によって救われ死後は神のもとに行ける”と捉えられている。
仏教、ヒンズー教の生まれ変わり
仏教では命は死を迎えたとしても、人だけでなく動物なども含めた生類に生まれ変わり、これを何度も繰り返すと考えられている。これはインドの伝統宗教の思想を受け継いでおり、これによれば、生物らは死して後、生前の行為つまりカルマの結果、次の多様な生存となって生まれ変わるとされている。仏教の経典のひとつに『本生経』と呼ばれるブッダの前世を描いた物語があるが、そこにはブッダが仏となる前に何度も人間や動物に生まれ変わって人々や動物を救ったという話が547も収められている。
ヒンズー教でも輪廻の思想が強くあり、現世で積み重ねた業によって来世の自分が決まるという考え方を持っている。その思想が根強いため、いまだにカースト制度という差別的な階級制度も仕方がないと受け入れてしまっていると言えよう。
死後の世界について、スピリチュアル的な観点と科学者の新見解
19世紀以降に西欧諸国で興ってきたスピリチュアルの世界では死んだ後は大いなる力と一体化すると考えられる。「千の風になって」という有名な歌では、死者は風になって君の周りにいつもいるんだよと歌っているが、死んだ後の魂は大いなる宇宙根源と一体化し、なんの悩みもない高次元の存在になるというものだ。ここに至るまでカルマの解消を経験として積む、というのは古代インド哲学と同じ立場だが、スピリチュアルの世界では、カルマの解消は魂にとって必要な学びであると、肯定的に捉えているのが特徴的である。これらも馬鹿馬鹿しいと思われる方もいるかもしれないが、これと同じような話を東大医学部出身の方がこう話されていた。人間が考え導き出したベクトルの内積という定理があるが、それはこの世界の空間を規定する上で非常に重要な役割を担っている。この空間そのものが計算の上に成り立っており、これらをすべて計算で導き出した思念体があるとしたら、それは驚くべき高次元の存在と言えよう、と。
スピリチュアルを信じる人々が目指す高次の存在について、このように有識者も別視点から述べているのだ。また、死後は無になるというのが往年の科学的見解であった。心は脳神経の信号によるものなので肉体が機能を失うと同時にそれは全くの無になるという考え方だ。もちろんそこには前世も生まれ変わりの考えも存在しない。
そして最近科学者の中で取り沙汰されている新たな理論は、この世界は全て設定に過ぎない、というものだ。この世の全ては仮想現実であり、そもそも私たちは生きていない、という説なのだ。オックスフォード大学のニック・ポストロム教授は私たちはシュミレーションの世界の住人で、この世界が仮想現実であるという確率はほぼ100%であると表明。実業家のイーロン・マスクも、この世界が仮想現実でない可能性は1000億分の1だと言っているそうだ。とはいえ、私たちには生きている実感がしっかりあると思うのだが。
日本固有の思想
民俗学の祖である柳田國男は、日本の精神文化の土台として祖霊信仰が根付いているとした。これは人は亡くなると遠くには行かず、この世とあの世を行き来しながら霊魂となり、子孫を見守り続けているという思想である。確かに、わたしにはおじいちゃんがついてるから、などと日常で会話する人はよくいる。これは生まれ変わりの思想とは矛盾しているのだが、そのどちらも受け入れている人が見られるのは、日本独特の面白い文化と言えよう。
最後に…
現代科学では、死後どうなるのか、生まれ変わりはあるのかについて明らかなる解明や証明はいまだに出来ていない。あるともないとも分からない、というのが現状だ。
私たちの魂が、今生きているこの人生だけでなく、永遠に繰り返される様々な人生を旅しているのだとしたら、そして、今現在の人生での行いが次の人生を決めているのだとしたら。
どちらにせよ、哲学であれ、宗教であれスピリチュアルであれ、その根本には今をどのようにより良く生きるか、という追求があり、私たちはこの今の命、目の前の課題、喜びと感じることを存分に味わい、悔いなく暮らしていくことが大事であろう。