仏教の開祖は釈迦(ゴータマ・ブッダ)である。しかし少なくとも日本では仏教といえば空海、親鸞、日蓮…といった高僧の名を連想する人が多いのではないだろうか。釈迦は開祖でありながら、各宗派を立ち上げた宗祖の影に隠れている感がある。その各宗派の釈迦の立ち位置を概観する。

釈迦の誕生日である4月8日に行われる花まつり
毎年4月8日には各寺院で仏教の開祖・釈迦の誕生日を祝う「花まつり」が行われる。元々は「灌仏会」(かんぶつえ)という仏教行事で、日本では奈良時代に法隆寺で最初に執り行われたという。仏生会(ぶっしょうえ)、降誕会(ごうたんえ)、花会式(はなえしき)などとも呼ばれる。仏教では宗派を問わず、釈迦が悟りを開いたとされる12月8日の成道会(じょうどうえ)、命日とされる2月15日の涅槃会(ねはんえ)と並ぶ三大行事である。明治になって「花まつり」と呼ばれるようになり、現代でも庶民のお祭りとして賑わっている。小さな釈迦像の頭に甘茶をかけるのが定番で、これは生誕の際に九匹の龍が甘露を降り注いだという伝説に由来する。しかしこの花まつり、クリスマスと比べるとかなり地味である。クリスマスを知らない人はほとんどいないが、花まつりの知名度はかなり絶望的といえる。最近では若い僧侶たちが「メリークリスマス」ならぬ「メリシャカ」という言葉を流行らせようとする動きもあるがまったく広まっていない。日本の仏教は釈迦の影が薄いのである。
釈迦は初級ー真言密教
真言密教を招来した真言宗宗祖・空海は、釈迦の教説は浅い、大日如来の法こそが真理だと説いた。開祖を否定するとはとんでもないように思えるが、これは「三身説」に基づく。真理そのものの「法身」、身体を具現化した形の「報身」(如来菩薩天部など)、そして現実世界に人間の身体に化身して現れた応身(釈迦/ゴータマ・ブッダ)である。応化身・釈迦は庶民の悩み・苦しみに応じて、その都度、わかりやすい喩えや表現、物語などを使って法を説いた。具体的な悩みに平易な言葉で伝えるのは素晴らしいなことだが、真理そのものではない。釈迦が本当に掴んだ悟りは言語を超えたものである。密教は体験を重視し、釈迦が悟った真理そのものに近づこうとする。言葉による伝授を重視した最澄との確執の一端はここにあった。密教からすると、それまでの釈迦仏教は一般普及用の「顕教」である。悟りを得るには法身仏である大日如来の法を学ぶ密教の方が優れているとした。そうした密教であるから、釈迦の立ち位置は特別高いとはいえない。大日如来を中心に仏神の世界が描かれている胎蔵曼荼羅には釈迦(釈迦如来)のクラスは中堅といったところである。そして時代が下るにつれ、庶民の間で弘法大師・空海の神格化が進んだ上に、明王などの人気も高まったことで釈迦の影はさらに薄くなっていった。
釈迦は上級ー浄土系仏教
浄土宗・浄土真宗らの浄土系仏教は「南無阿弥陀仏」の念仏を唱え、阿弥陀如来に帰依することで極楽浄土に往生できるとした。文字も読めない多くの庶民は、密教に限らず仏教が説く複雑深遠な思想など理解できるはずもない。畑を耕すことも魚を漁ることもせず、真理に近づくための修行をする日々など思いもつかない。日々の暮らしを保つことで精一杯であった。そんな彼らの前に浄土宗宗祖・法然、浄土真宗宗祖・親鸞ら浄土教の聖者たちは「念仏を唱えなさい、それだけで救われます」と説いた。庶民の喜びはいかばかりだったか。そこに釈迦の面影はない。もちろん浄土教でも仏教開祖への崇敬の念は厚い。親鸞は弥陀・釈迦を二尊としている。しかし庶民の思いは極楽に連れて行ってくれる阿弥陀仏に集中した。
密教が釈迦の教えは簡単すぎて奥が浅いとしたのに対し、浄土教は難しすぎて実践できないとして阿弥陀信仰に特化したのは面白い。また浄土教も密教と同じく宗祖の神格化が進み、宗祖を祀るお堂が阿弥陀如来が鎮座するお堂よりも大きく境内の中心を占めるという奇妙な現象が起きている。
こだわらない禅宗
臨済宗・曹洞宗らの禅宗では密教、浄土教ほど本尊にはこだわっておらず、釈迦、阿弥陀如来、弥勒菩薩など寺院によって多様である。禅は座禅や公案などを通して悟りを得ようとする。禅は経典に依らない「教外別伝」を説き、曹洞宗宗祖・道元は、法は自らにあると説いた。あらゆる常識、固定観念を崩して、真理に近づこうとする禅者にとって、釈迦は崇敬はしつつも依存はしないスタンスなのだろう。
日蓮宗の釈迦は法身仏
これまで挙げた諸宗派に釈迦擁護の立場から批判の矢を放ったのが日蓮である。日蓮は「法華経」を釈迦の説いた道の正統だとした。それに基づき他の宗派を「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」などと強烈に批判をした。日蓮にとって「教外別伝」などと経典を軽視したり、釈迦を無視して大日如来や阿弥陀如来を本尊とするような宗派は邪教でしかなかったのである。日蓮宗では法華経に基づき、法身としての釈迦を説いている。あらゆる時代、あらゆる世界に釈迦は存在しており、我々が知る釈迦はそのひとりに過ぎない。 これを「久遠実成の釈迦」と呼ぶ。釈迦の神格化といえる。しかし日蓮宗では「法華経」と、題目「南無妙法蓮華経」が最重要であり、最もポピュラーな本尊「大曼荼羅」の中心を占めるのは釈迦ではなく「南無妙法蓮華経」の七文字である。
日本仏教の多様性
近年では原始仏教に近いとされる、上座部仏教(テーラワーダ仏教)が知られるようになったが、日本の仏教は空海にせよ日蓮にせよ、宗祖の個性が強すぎるといえる。日本は仏教国と言われるが実はかなり特殊な環境なのだ。それだけ多様な仏教世界を味わえるということでもあり、その豊潤な世界を提供してくれた開祖に敬意を持つことを忘れてはならない。
参考資料
早島鏡正「入門 教行信証 正信偈をよむ」NHK出版(1994)
空海著/加藤精一訳「弁顕密二教論」角川学芸出版(2014)
紀野一義/梅原猛「仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>」角川文庫(2014)