私たちの周りには「モノ」が溢れ「モノ」に囲まれて生きている。人間とモノとの関係を宗教的、スピリチュアル的に考えてみる。

こんまりメソッド

片づけコンサルタントの「こんまり」こと近藤麻理恵氏が「片づけ」を諦めたというニュースが反響を呼んだ。大量の仕事で多忙な毎日を送り、3人の子供を育てる日々の中で片付けることを諦めたという。「今の私にとって大切なのは、家で子供たちと過ごす時間を楽しむことだと気付いた」とのこと。話を聞けば至極当たり前のことでなんということもない。だが、片付けのカリスマとしての近藤氏の名声は非常に高く、賛否両論を巻き起こした。
近藤氏の何がそこまで受け入れられたのか。氏のいわゆる「こんまりメソッド」は、無理にモノを捨てるのではなく、「ときめき」を感じるものは手元に残すという独特な方法を提案する。例えば本を手に取って「ときめく」ものは捨てなくてもよいとする。この場合本の中身を見る必要はない。ただ手に取って「ときめく」かどうか感じればよいのだ。近藤氏は神社で巫女として5年ほど働いた経験があり、「片づけは祭り」であるなど神道の思想が所々に現れている。氏は「私の片づけの裏テーマは『お部屋を神社のような空間にすること』。つまり、自分が住む清らかな空気の漂うパワースポットにすること」だと明言もしている。
神道は穢れを嫌い清潔であることを重視する。そして八百万の神というように、この世のあらゆるモノには心が宿る、霊が宿るとされている。モノは単なる物質ではない。近藤氏の著書には実際にモノに気持ちが通じた体験が綴られている。氏の片付けメソッドには神道に基づくスピリチュアル的な感覚が背景にあり、それが良くも悪くも信者ともいえる支持者を生んだ。
一方で「ときめかない」モノを片づけられない原因に、過去への執着や未来への不安があるとも指摘する。モノとの縁は人との縁と同じくらい深いものであり、「ときめかない」モノは縁が消えたということ。そうしたモノには執着してはならず手放すべきである。しかし縁のあるモノとは本当の意味では別れはない。また違った形で戻ってくるものだと説いている。これは仏教の縁起の思想に近いものがあり、神道と仏教の習合が特徴の日本のスピリチュアリティを感じさせる。
心が宿るモノ
モノは単なる物質を超えることがしばしばある。他人にとってはただのモノでもその人にはかけがえのないモノはたくさんある。東京五輪女子ソフトボールの金メダルを噛じって批判を浴びた市長がいたが、あの金メダルは寸分違わず同じモノをもう一つ作ったとしても、全く別のモノである。あの日あの時あの人たちと共に分かちったメダルは唯一のモノだ。そこにはやはり心が宿っている。
プロ野球WBCで大谷翔平選手が特大アーチを放ったホームランボールを女性がキャッチしたときも話題になった。女性はそのボールを隣の観客に渡し、その観客はスマホで記念撮影。さらにボールは次々と回し渡され、巡り巡って最後には女性の手に戻った。これに海外の反応は驚嘆。「アメリカなら奪い合いになっている」などのコメントがあがった。野球に興味のない筆者からみれば、回し撮りも奪い合いも理解できない。あのボールには大谷選手の指紋どころか汗一滴付いていないのだから。まさに物質を超えたモノの好例である。
こうした感情は万国共通らしい。著名人の使った道具がオークションで高値で落札されたニュースはしばしば聞く。しかし日本人のスピリチュアリティはさらに頭抜けることがある。野球部の部員が練習後、グラウンドに挨拶をする光景が海外で話題になった。部員にとってグラウンドは単なる土の広場ではない。また自分たちの所有物でもない。挨拶は自分たちが使わせて頂き、自分たちを育んでくれるモノへの感謝の心である。これはほとんどの日本人なら理解できる心性だと思われる。
形見・遺品は執着か
単なるモノを超えるといえば、形見・遺品などはその筆頭である。しかし、故人が生前に使っていたモノなどを残しておくと、成仏できないから処分するべきとはよく聞く話である。つまり死者がこの世に未練を残すからということだろう。この世への執着を断ち切るべしとの発想は仏教から来ているように思われる。仏教は元々無神論に近く死後に存続する霊魂の存在は認めておらず、死後の存在などに依存したりするのはこの世への執着に他ならなかった。
これに対して神道や仏教が混じり合った日本の信仰形態では死後の存在を認めるばかりか、盆や正月には帰ってくると言われており死者を出迎える準備まで行う。死者の霊は普段は山の彼方の異界などに住んでいて家族を見守っているのである。
これらの思想は初期仏教からすれば死者への執着以外の何物でもないが、神仏習合を経た日本仏教では後の密教や浄土教などに至りその限りではなくなる。この世に対する執着を捨てることが、解脱、成仏、往生…への道であることには変わりはない。かといって初期サンガのように何もかも捨てる必要はない。平田篤胤(1776~1843)は死後霊魂が住む世界を「幽冥界」と呼び、現世と重なり合うように存在する世界だとした。死者はあらゆる場所で生きている。現代の私たちが墓参りに行くのも、遺影を飾り位牌を大切にするのも、そこに死者がいるような感覚があるからである。
モノとの関係
心が宿るモノ、故人を偲ぶモノは近藤氏の言うように形を変えて続いていく、その人との縁の証である。ひたすらモノを消費する時代でモノを大切にする心を改めて考えてみたい。
参考資料
近藤麻理恵「人生がときめく片づけの魔法」サンマーク出版(2011)