テレビドラマ「リエゾン-こどものこころ診療所-」(テレビ朝日)に登場する医師が、死後の世界・死後生を語ることを否定する場面があった。母親を失った女の子のケアについて医師はその父親に、天国、お空、遠い所に行った、お星様になった…などの説明をすることはごまかしであると否定し、娘には「死」とは何かを教えるべきだと説いた。発達障害を持つその女の子は、友達から「お母さんはしんでおばけになった」と聞かされて遊園地のお化け屋敷に行きたがる。父親は、お母さんはもういない、死んだ人間とはもう会えない事実を教えなくてはいけないと決意。お化け屋敷に行ってもお母さんはいない。もうお母さんには会えないのだと諭した。このストーリー自体は子役の優れた演技力もあり感動を呼ぶものだった。しかし、死は無なのだという唯物論的世界観を認めさせ、その世界観による「現実」を直視し「強く生きる」ことを推奨する描き方は違和感が残る。
なぜ死後生を信じてはダメなのか
作中では死んだお母さんが天国に行った、お星さまになった…の説明ではいけない明確な理由は述べられていなかった。「死は無である」「死の次のステージなどはない」という唯物論的世界観が暗黙のうちに認められており、死者がこの世界とは違うどこかにいるとする「物語」は、ごまかしであり逃げであると言っているようであった。しかし会うことができないのは天国でもお空でもお星さまでも同じである。人は誰もが死ぬ。死んだあとは行くところに行く。私たちもいつか死に、またそこで会える。浄土真宗では縁のあった人とは浄土でまた会えると説く。これを「俱会一処」という。それではダメなのだろうか。
多少穿った見方をしてしまうと、作中で子供が求めていた母親の居場所が、あの世でもお星さまでもなく、お化け屋敷にしたのは、お化け屋敷に行けばお母さんはいないことを証明できるからだろう。天国やお空ではお母さんがいないことを具体的に立証できない。もしかしたら本当にお星さまになってるかもしれない期待を持ててしまう。それならそれでいいような気もする。この世では会えないが、いつかまた会える。それではダメか。そこまでして死後の行方を徹底的に否定することで何を得るのだろう。強くなれない人間はどうすればよいのか。
また、重箱の隅をつつくようだが、その家には位牌が置いてあった。父親は位牌を受け取る際に僧侶から何らかの法話を聴いたはずである。おとぎ話だと流していたのだろうか。今後法事を執り行う際に僧侶が語る物語について、子供たちになんと説明するのだろう。
死後生を欣求してきた人類
ひろさちやの本で読んだがポリネシアの人たちは死ぬ前に、自分が死んだらあの星に生まれると好きな星を選び安らかに死んでいくそうである。見上げれば満天の星が輝き、そのひとつひとつが家族であり友人たちだ。美しい話だと思う。もう会えないどころではない。ポリネシアの人たちは死者と共に生きているのである。
古今東西様々な文明で死後の行方が説かれてきた。チベットやエジプトには死後どうなるのかを描いた「死者の書」があり、日本にも「往生要集」などがある。現代社会ではこれらは死の恐怖から逃れたい故の創作ということになる。しかし科学で証明できないを理由に問答無用に否定してよいものか。世界がこの世だけなら、人間が頂点の存在となる。神様も仏様もいないなら、人知を超えたものへの感謝と畏れの心、畏敬の念は生まれない。
私たちは命日、お彼岸に墓参りを行い、お盆には死者が帰ってくるための準備をする。伝統行事だから仕方なく形だけなぞっているわけではない。確たる信念はなくても、どことなくなんとなくでも、心のどこかであの世とあの世にいる死者の存在を信じている。それを逃避、ごまかしとするのは暴論ではないだろうか。ドラマの最後で子供が母の写真と位牌に手を合わせる場面があった。父親は満足そうだったが、彼女は何に対して手を合わせていたのだろう。
知性の傲慢
人間は死と向き合い、死を直視し、死を考えてきた。そして多くの物語が生まれた。唯物論者も「死は無である」と信じているに過ぎない。それも物語のひとつである。死後の続きはあるのか。誰も死んだことがない以上真実はわからないのだ。少なくとも死後生を語ることをごまかしであるとするのは、現代知性の傲慢というものだろう。