「後生の一大事」という言葉がある。死後、自分はどこへ行くのかという根源的な不安である。親鸞は阿弥陀仏の救いを疑いなく受け入れる、信心を獲得すればこの不安は解決するとした。一方で信心獲得は難しいとも言っている。親鸞の時代でさえそうだった。科学時代の現代で「後生の一大事」は解決できるのか。
科学の壁と「あの世」への希求:現代人が直面する信仰の困難
人は死んだら無になる。現代の科学・医学的見地ではそうなる。だから精いっぱい悔いのないよう生きていこう。と、一度しかない命と人生の大切さを説く倫理・道徳は正論であるし、やる気も起きるが、それは健康で元気であればこそである。自分に、あるいは大切な人に死が近づいてきた時、「あの世」の存在を信じられるのと信じられないとでは大きな差ができる。しかし現代に生きる我々には「あの世」を信じるのは困難だ。「天国に行った」とせめてもの慰め程度に語るのが精々である。だが世界には神や仏、あの世を語る宗教、思想が無数にある。そのどれも作り話なのだろうか。実はそのどれもが真実の一端を担っている可能性があるとしたらどうだろうか。
宗教多元主義:究極のリアリティへ至る「多様なルート」の肯定
古今東西に宗教、哲学、思想は無数にある。だがどれが真実だろうか。輪廻転生を否定するキリスト教が正しければ、仏教やヒンドゥー教は間違っていることになる。逆も然りである。ではどちらも正しいと言ったら、そんなはずはないと思うだろう。「宗教多元主義」はそれを主張する。宗教哲学者・ジョン・ヒックによると「神は多くの顔を持つ」。つまり人知を超える大いなる存在、究極的なリアリティは、人間それぞれの文化、地理、歴史というフィルターを通して、「神」「仏」「法」「真理」といった異なる姿を持って応答し、それがキリスト教、イスラム教、仏教といった体系になったとする。よく使われる例えとして、山の頂上に至るまでのルートは複数あり、どのルートも頂上に通じているという考えである。頂上が究極の真理、それぞれのルートが宗教、思想ということになる。人間は不完全な存在であることは否定できないだろう。不完全な存在が完全な存在をそのまま認識することは不可能である。完全な存在が不完全な「フィルター」を通して、異なる姿で現れるというのは頷けるものがある。
この考え方は多様性や異文化交流が叫ばれる現代において重要な考え方とされるが、一方では各宗教のオリジナリティの喪失、カルト宗教との線引きなど課題は多い。だが「あの世」を信じたい立場としては、どれを信仰しても真実につながるのだから、自分に合っているものを選べばよいという利点がある。一方で最大の問題も控えている。そもそも各々のフィルターを通して現れるという、その究極的な存在なるものの実在はどう保証されるのか。人間の想像でしかないのではないか。
主観的事実としての救い:客観的立証を超えた「個人の真実」
「フィルター」に通され、神や仏として現れる原型、究極的な存在は本当に存在するのか。究極の存在なら、人間に認識などできないという矛盾が生じる。宗教哲学者・清沢満之は「すべての宗教は主観的事実である」と述べている。神や仏は客観的に存在を立証できるようなものではなく、自分が信じるならそれは実在する。例えば、西田幾多郎の「純粋経験」の応用になるが、ある人が、死んだ親の霊を見たと言った。これを信じる人も信じない人もいるだろう。だがこの人が嘘をついていないとするなら、「見た」という事実それ自体は否定できない。信じない人はそれは錯覚だ、幻覚だと言うだろう。だがその「真実」は本人含め誰にもわからない。確実なことは「見た」という「事実」だけである。そして当の本人が親と再会したと感じたならそれは「真実」になる。宗教的な問題は科学的問題とは違い、客観的な立証は必要ない。日本人の場合、具体的な信仰は持たなくても徹底した無神論者は少ないと思われる。無宗教と言いつつ、鳥居や墓石を蹴れと言われて躊躇しない人は稀だろう。ほとんどの人は神仏霊魂といった存在をはっきりと信じてはいなくても「なんとなくいるような気がする」感性があるはずだ。その感性こそが主観的事実である。あとは「フィルター」を通して現れた無数の宗教から自分に向いたものを選び、関連する書物を熟読するなどして内容の深さに踏み入り、具体的な形にしていけばよい。
パスカルの賭け:不条理な死に立ち向かうための「合理的な選択」
さらに「神を信じた方が得である」とする「パスカルの賭け」を「あの世」の存在に適用し補強したい。賭けに負ける、つまり死後あの世は無く「無」だとしてもらそれを嘆く自分もいないのだから、さほどのリスクもない。信仰を持った方が楽に生きられるという考えである。
瞑想や神秘行などを実際に行い、スピリチュアルな世界をリアルに体験する道もあるが、やり方を間違うと危うい方向へ向かうリスクもある。「パスカルの賭け」や宗教多元主義などを通じて知的に解決できればそれに越したことはないだろう。
知的な解決を通じた「後生の一大事」の克服と不退転の境地
かなり理屈っぽくなってしまったが、現代人が「あの世」の実在を信じることができるようになり、「後生の一大事」を知的に解決できる一案としたい。課題は多いが、宗教学者で無神論者、岸本英夫の独白「死後生の信念を持たないことは、素手で死の前に立っているようなもの」に陥る可能性を少しでも低くすることができるのではないかと考える。
親鸞は信心を獲得し「後生の一大事」を解決した状態を「正定聚」といい、「不退転」迷いには戻らない境地であると説いた。そのような境地にたどり着くことが果たしてできるだろうか。
参考資料
■拙稿:宗教に依るのではなく、宗教を道具として活用するという考え方
■拙稿:信仰心ではなく損得や打算から神の存在を考える パスカルの賭け



























