世界最大の信者数を誇るキリスト教と、日本最大の信者数を誇る浄土真宗には共通点が多い。そこから興味深い都市伝説まで生まれた。双方の創始者、親鸞(1173〜1262)とマルティン・ルター(1483〜1546)は共に宗教史における革命家だった。両者に通じる神仏・民衆への思いとは。
都市伝説の真偽——親鸞と「景教」を巡るミステリーと宗教の根源的類似性
ネット上には時折、親鸞とキリスト教、浄土真宗の一方の雄である西本願寺に関する都市伝説が見受けられる。親鸞はキリスト教の影響を受けており、西本願寺には親鸞が読んだとされる「世尊布施論」が宝物として保管されているというものである。この「世尊布施論」なる文書は中国・唐代に流行した「景教」の経典のひとつである。景教はキリスト教ネストリウス派の流れを汲み、時の皇帝に迎えられ栄えた。世界史の授業に登場する「大秦景教流行中国碑」はその盛んな様を記した碑である。
親鸞の主著「教行信証」は凄まじい引用の数で親鸞の読書量が知れるが、5000巻に及ぶ当時の全ての経典を5回も読んだという師・法然共々、「世尊布施論」並びに景教については何も言及していない。キリスト教伝来の遥か以前に、新奇な宗教・景教の経典が伝わりその影響を受けたとしたら何かしら触れても良さそうなものである。なお長い歴史を持つ西本願寺に「世尊布施論」が所蔵されているとしても、親鸞がそれを読んだことにはならない。
人間の考えることは洋の東西を問わず大概似通っているものである。仏教とキリスト教というなら、釈迦とイエスがそれぞれ断食中にマーラーとサタンの誘惑を退けた話などはそっくりである。断食の日数は釈迦が49日、イエスは40日とこれも似ている。心理学や神話学が指摘するように、神話や宗教というものは人間の根源的なところでつながっているのではないだろうか。
「自力」の否定と「万人救済」——比叡山とカトリック、旧権威を打破した二人の革命思想
このような都市伝説が生まれたのは、それほど浄土真宗とキリスト教が似ているということに他ならない。親鸞は東洋のルターと言われるほどキリスト教、特にプロテスタントとの親和性が強い。件の伝説も主にプロテスタント系の関係者が好んで流布しているようである。安土桃山時代の宣教師ヴァリニャーノ(1539〜1606)は真宗を「ルターと同じ説と同じ」だと述べており、また近代神学の祖、カール・バルト(1886〜1968)も浄土系仏教とプロテスタントの類似性を指摘している。
確かに仏教に革命をもたらした鎌倉新仏教の一翼である親鸞と、16世紀のドイツで宗教改革を行ったルターは、その信仰思想や宗教的背景において驚くほどの共通性を持っている。ルターはカトリックの形式的な儀礼や善行、免罪符(贖宥状)などの自力的な行為を否定し「聖書のみ」「信仰のみ」によって救われると主張した。これはルター神学の中核といえるもので「信仰義認」という。罪深き人間は善行をいくら積んでも救われない。ただ信仰あるのみとするものである。この信仰が神に認められると、神の恩寵により救われる。救いは人間によるものではなく、神から与えられるものだとした。
親鸞も自らの修行や善行によって悟りを開こうとする「自力」では救われないとし、ただひたすら阿弥陀仏の救いを信じ、信心を獲得する「他力本願」を強調した。親鸞によると念仏は称えるものではなく、阿弥陀仏に称えさせられるものである。そして信心とは自分の力で得るものではなく、阿弥陀から賜った心である。
またルターは、すべての信者が直接神とつながれる「万人祭司」を唱え、カトリックの教会や聖職者の特権を否定した。また聖書を文字の読めない一般信徒へ聖職者の独占から開放するためにドイツ語訳に取り組んだ。親鸞も「在家仏教」を説き、「親鸞には弟子は一人もいない」として、仏教の深遠な哲学を理解できない民衆と阿弥陀仏が直接つながる道を広めた。さらに言えば両者ともに妻帯し子に恵まれた。生涯独身を貫く僧侶や司祭に比べ民衆に近い存在だったのである。
ルターがローマ・カトリック教会の腐敗を批判し聖書中心主義を掲げたように、親鸞は当時の仏教界が形式化・特権化していた比叡山と決別し、純粋な信心の追求へと向かった。両者は共に既存の宗教権威(カトリック・比叡山)を否定し、万人のための宗教を作り上げた。
「人格神」と「方便」の相違——一神教の絶対者と宇宙の真理(法)を分かつもの
ここまで見るとほとんど同じ宗教であると言われても無理はない。だが決定的な違いもいくつかある。その中でも重要なのが阿弥陀仏は人格神ではないということである。一神教(キリスト教、ユダヤ教、イスラム教など)の唯一神は人格を持ち意思を持っており、人間やこの世界からは完全に独立した存在である。その神との関係は祈りや儀礼などを通じて維持される。
対して仏教ではそのような超越的存在は説かず、阿弥陀仏も宇宙の真理である「法」そのものである。そのような抽象的な存在を庶民が理解するのは難しいので阿弥陀仏という形を取ったに過ぎない。これを親鸞は真理そのもの「法性法身」と阿弥陀仏のような具体的な仏の姿を「方便法身」とした。その阿弥陀仏はさらに「南無阿弥陀仏」の六字となって人と共にある。
キリスト教の神が実際的な存在であるのに対し、浄土系仏教の仏は親鸞が「方便」と言うように、真理の擬人化といってよい。このあたりは無神論ともいえる哲学だった仏教と、イエス・キリストという「神の子」の実在がベースになっているキリスト教の根本的な相違点といえる。
現代に響く慈悲と恩寵——唯物論の時代に「人知を超えた真理」を民衆に開放した意義
根本的な相違点があるとはいえ、そこから構築された教えに共通点が多くあるのは事実である。親鸞もルターも宗教的真理を独占していた旧来の仏教に疑問を抱き、わかりやすい方法で民衆に開放した。その思い・行動こそが、両者に弥陀の慈悲・神の恩寵が賜ったことの何よりの証だといえるのではないだろうか。人は死んだら土になるだけの科学的唯物論が支配する現代においても、彼らの教えは人知を超えた真理を与え続けている。
参考資料
■ケネス・タナカ著/島津恵正訳「真宗入門」法藏館(2003)
■森田眞円「唐初の景教と善導大師」『眞宗研究』55号 真宗連合学会(2011)



























