過去の前例や一般的な常識からすると、到底叶わない偉業を成し遂げる。悲劇的な大事故で奇跡的に一命を取りとめる。株取引やギャンブル、宝くじなどで、まさかの一攫千金を手に入れる。一方、その反対に、その日に限って別の道を通った。寝坊した。忘れ物を取りに自宅に引き返した…などの偶然によって、普段の生活通りであれば決して巻き込まれることのない事件事故の犠牲になってしまう。
これらのような極端な事例でなくても、多くの人は幸運/不運をどうしても気にしてしまいがちだ。それはしょせん、通常の「起承転結」の「理屈」では説明できない偶然、または想定外の出来事に対して、「幸運」「不運」といった枠組みを用いて理解、または納得しようとする人間の心の動き…でしかない。とはいえ、必ずしも自分自身が当事者ではなく、更にそれが「幸運」であればまだしも、「不運」または「悪運」の場合は、「確かにそれはそうなんだが…だけど…」という、ある種の「すっきりしない気持ち」が残ってしまう。
天保水滸伝とは
このように、すっきりしない。または「何とかならなかったのか」といったことは枚挙にいとまがないのだが、今回は江戸末期の実録本『天保水滸伝(てんぽうすいこでん)』(1850年)に登場する親分・笹川繁蔵(ささがわのしげぞう)こと岩瀬繁蔵(1810?〜1847)の不慮の死と、死後の不思議な偶然を取り上げる。
『天保水滸伝』とは、中国の四大奇書のひとつに数えられる、個性豊かな無頼派の豪傑たちが大活躍する長編小説『水滸伝』(15世紀成立)を模したもので、実際に起こった、利根川下流域における侠客同士の争いを取材した、江戸の講談師・宝井琴凌(たからいきんりょう、1827〜1869)によってまとめられたものが始まりとされる。
その後、三代目歌川豊国(1786〜1865)によって、当時の人気歌舞伎役者の似顔で『天保水滸伝』の侠客たちを描いた揃いものの浮世絵、『近世水滸伝』(1862年)が刊行された。歌舞伎狂言作者の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ、1816〜1893)が『群清滝贔屓勢力(むれきよたきひいきのせいりき)』(1867年)と題し、3幕の劇にした。明治以降は講談や浪曲、子母沢寛(しもざわかん、1892〜1968)の『遊侠奇談』(1930年)などの大衆文学、昭和初期に大ブームとなった浪曲師、2代目玉川勝太郎(1896〜1969)、更に芝居や映画はもちろんのこと、田端義雄の『大利根月夜』(1939年)、三波春夫の『大利根無情』(1959年)なども大ヒットした。また平成26(2014)年には、氷川きよしがデビュー15周年記念に『大利根ながれ月』をリリースしている。
天保水滸伝が人気の理由
「侠客同士の争い」が何故、多くの人々の心を掴んだのか。それは、江戸時代は社会・経済・政治全てにおける支配/被支配関係が峻厳だった。戦国時代のような「下剋上」は到底叶わない。被支配者層は支配者層に対する不満や怒りがあったとしても、それを行動に移し、世直しを企図することは自身の破滅でしかなかった。しかし、「無宿」「悪党」「極道」などと、「一般の人々」とは埒外の世界に身を置く彼らだったからこそ、「掟」よりも義理人情を重んじ、「弱気を助け、強気を挫く」ため、身を挺して、絶対的権力を有する「お上」に対し、果敢に戦いを挑む存在であると、「英雄」視されたことにある。しかも当時は、江戸幕府が有してきた上記の「権力」そのものが揺らぎ、後の明治維新(1867年)を惹起させるほど、社会そのものが不安定かつ、爆発寸前の不平不満が渦巻いていた。そうした社会状況だったからこそ、既成の常識や価値観を打ち壊し、新たな世界を生み出す超絶的な存在として、有名な侠客たちが、実像よりも美化された点は否めない。
天保水滸伝の舞台となった当時の利根川流域の様子
当時の利根川流域は、漁業基地・銚子と江戸市中をつなぐ川舟水運で大いに栄えていた。年貢米や近在の農村で採れた農作物、銚子の魚介類、地場の酒・醤油、木綿織物などを江戸に輸送する。帰りは関西からの塩、古着や瀬戸ものなどの生活物資を運んでくるのだ。それに伴い、大きなお金が動く。そのような繁華な「場所」には、いろいろな思いを抱いた多くの人々が集まってくる。その中には天明3(1783)年以来、旱魃・洪水などによる米の不作が続き、生活が成り立たなくなっていた農村部から離脱し、手っ取り早く「日銭」を稼ぎたい人々も多かった。そうなると、集まってくる人々を対象とした、いわゆる「飲む・打つ・買う」の盛り場が繁盛する。「徳川様」のお膝元であるがゆえに「盛り場」そのものや、よそから流入した「渡世人」などに対する幕府の取り締まりや町内での制裁が厳重であった江戸市中よりも「監視の目」が届きにくい利根川流域のような、いわゆる「田舎の盛り場」は、無頼の徒が闊歩しやすい。しかも「ここ」は「田舎」であるにもかかわらず、伝統的な「農村社会」とは大きく異なる。貨幣経済の発展・浸透によって、「江戸市中」のような「最新流行」の生活風俗を体験できる「場所」でもあったため、その華麗さ、享楽性に惹きつけられる人々も多かった。こうした、実に「混沌」とした「場所」、そして人々をまとめ上げ、秩序を保つには、親分衆の「凄み」や「睨み」が必要とされてもいた。そうは言っても、たとえ未熟な「若い衆」であったとしても、力と度胸さえあれば、古株の親分を制し、自らがトップに上り詰めることができる「場所」でもあったのだ。
天保水滸伝は笹川繁蔵と飯岡助五郎が縄張り争いをする史実に基づく話
『天保水滸伝』で描かれたのは、このような利根川の下流域で、現在の千葉県香取郡東庄町(とうのしょうまち)の笹川河岸を舞台とした、「売り出し中」の親分・笹川繁蔵と、同じく侠客でありつつも網元で、関八州(上野・下野・常陸・上総・下総・安房・武蔵・相模)の悪党や博徒、無宿者を取り締まる関東取締出役(しゅつやく/でやく)の「道案内」、すなわち、情報収集や取り締まり、召し捕り(逮捕)の際の手助け役として十手(じって)を預かっていた、いわゆる「二足のわらじ」をはいていた大親分・飯岡助五郎(いいおかのすけごろう、1792〜1859)こと石渡(いしわたり)助五郎との縄張り争いの詳細だ。時を経る中で、話を盛り上げるための演出や脚色が加えられてきたとはいえ、登場人物ひとりひとりの個性、一連の揉めごとそのものは、おおむね史実に基づいているという。
その『天保水滸伝』における「大利根河原の決闘」だが、天保15(1844)年8月6日、近接する縄張りゆえに常々諍いが頻発していた繁蔵一味の捕縛のために、助五郎勢は20名ほどの子分を率いて殴り込みをかけた。しかし繁蔵側の抵抗が激しく、助五郎側が敗れてしまう。そして繁蔵とその子分・勢力富五郎(せいりきとみごろう、1813〜1849)こと勢力佐助を、近在の村人たちを総動員した大掛かりな山狩りをしたものの、あっけなく取り逃がしてしまったというのが、当時の公的史料の初出である。10日には2人の人相手配書が回されたが、それによると繁蔵は、以下の通りだった。
一、年齢三十五、六歳位
一、丈高く中肉
一、眉毛濃く目細き方
一、鼻筋通り色白き方
一、月代(さかやき)薄く耳大きな方
一、口 常体(ふつう)
捕物に失敗した助五郎はその後、不行き届けがあったということで捕縛され、70日余り入牢する羽目になった。大親分の助五郎を向こうに回し、劇的な逃亡を果たした繁蔵だが、一体どんな人物だったのか。
笹川繁蔵はどんな人物だったのか
繁蔵は、下総国香取郡須賀山村(すかやまむら)で、代々醤油や酢の醸造業を営んでいた名主・岩瀬嘉三郎(かさぶろう)の三男として生まれた。当時の渡世人には珍しく、幼少期に剣術、漢学や算術などを教わっていた繁蔵だったものの、腕っぷしが強かったこと。そして、都市部ばかりでなく、関東一帯の農村部にまで至った、「プロ」が行う相撲興行の流行と人気に影響されたのだろう。繁蔵は成人すると江戸へ出て、相撲の千賀ノ浦部屋に入る。1年ほど修行を積んでいたが廃業し、1831(天保2)年に故郷に戻った。博打での金離れがよく、度胸も腕力もある。そして男振りもよかったという繁蔵は、多くの子分を従えるようになっていた。そして1年ほどで、常陸国芝宿(しばじゅく、現・茨城県潮来市上戸(いたこしうわど))を縄張りとしていた文吉親分に見込まれる。文吉の媒酌で妻・豊子を迎え、その後は、文吉が経営していた須賀山村の賭場を任され、24歳で「笹川一家」の親分となった。天保13(1842)年、33歳の時には、後の講談の「笹川の花会(はながい)」で語られているように、7月27、28日、諏訪大神(現・香取郡東庄町笹川)の境内に、自身が若い頃に打ち込んだ相撲の神様・野見宿禰命(のみのすくねのみこと)の石碑を建立し、天保の大飢饉(1833〜1839)で苦しむ近在の村人たちを救うため、旅籠(はたご)の「十一(じゅういち)屋」で、親分衆のみの博打の会・花会を開いた。そこには上州(現・群馬県)の大前田英五郎(1793〜1874)や国定忠治(1810〜1851)、駿州(現・静岡県)の清水次郎長(1820〜1893)など、名だたる親分衆が全国から100人ほど集結したと言われている。このことから繁蔵は、義理人情に厚いばかりでなく、多くの親分衆が遠くから「わざわざ」やって来るだけの「人望」があったことを裏づけるものだ。
目立てば目立つほどに敵を作らざるを得なかった
しかし、そういう「きわ立った」人物には、敵も多い。「大利根河原の決闘」の1ヶ月前に、「飯岡の村内を繁蔵ほか数人が長脇差を帯びて押し歩くので召捕りを願いたい」という請願が匝瑳(そうさ)郡大田村(現・旭市)の寄場(よせば)役人に出された。それが関東取締出役に上申され、8月3日に繁蔵の召捕(めしとり)状が出された。その「実行役」が、関東取締出役の「道案内」であった飯岡助五郎だった。しかし繁蔵はこの動きを察知し、4日に飯岡側に殴り込みをかける。双方、さほど痛手はなかったという。それに激した飯岡側は、繁蔵を捕縛すべく、あの有名な「大利根河原の決闘」に至るのだ。
その後繁蔵は下総を離れ、大和国(現・奈良県)や紀伊国(現・和歌山県)、有馬温泉(現・兵庫県)などを巡り、3年近く身を隠していたものの、「もう大丈夫」と思ったのだろう。弘化4(1847)年の春先に、故郷に戻った。かつての子分たちもまた、繁蔵のもとに再結集し始めていた。とはいえ、助五郎が恨みを忘れていないことを認識していた繁蔵は堂々と振る舞うことはせず、なじみ深い十一屋に身を潜め、そこから子分に護られながら、賭場や妻・豊子の元に通っていたという。
笹川繁蔵に訪れた不慮な死
しかし、7月4日に限って…油断していたのか。賭場を終えて、子分と一杯やった後、豊子のところに行こうと思い立った繁蔵は、いつもなら肌身離さず身につけていた鎖かたびらを蒸し暑さからか身につけず、長着1枚だけを羽織っていた。しかもいつもの子分たちも断って、ひとりで歩いていた。兄・嘉三郎の家に立ち寄り、長居はせずに、豊子のところに向かっていた。地元の人々に「ドンダラ川」と呼ばれていた桁沼川(けたぬまがわ)に架かる、増水のたびに毎年「よく崩れる」橋ということで「ビャク橋」と呼ばれていた橋の脇の榎の木のかげに、かねて繁蔵の命を狙っていた飯岡方の3人が身を潜めていた。繁蔵が近づいてきたところで、1人が槍で突き刺し、残りの2人がとどめを刺した。更に彼らは繁蔵の遺体を笹川土手まで引きずっていき、首を刎ね、助五郎のところに持っていった。胴体は叺(かます、藁の袋)に入れて、川に捨てたという。繁蔵、38歳の若さだった。
繁蔵がこの日、いつものように護衛役の子分を引き連れ、鎖かたびらを身につけて用心していれば、命を落とさずに済んだのだろうか。
笹川繁蔵の死から85年後に起こった不思議な出来事
川に遺棄された繁蔵の胴体は、事件後数日経ってから、銚子の利根川河口で漁師の網にかかった。誰の遺体であるかが判別できなかったのだろう。無縁墓地に葬られていた。しかし、繁蔵の遺体が見つからなかったこと。また、岩瀬家代々の墓所に葬ることは、繁蔵が「侠客の親分」だったことから、叶わなかったこともあり、ビャク橋周辺の血まみれの土を集め、近在の共同墓地に葬られていた。時を経て、明治7(1874)年に、妻・豊子が石碑を建てた。それから更に11年後、岩瀬家の菩提寺・西福院(さいふくいん)内の、先祖代々の墓に祀られた。
しかし、それで「終わらなかった」。繁蔵の死から85年経った昭和7(1932)年8月、銚子町(現・銚子市)の道路拡張工事を行なっていたところ、繁蔵の墓石と胴体の骨が発見されたのだ。ところで、繁蔵の首はどこだ?
笹川繁蔵の首の行方
繁蔵を討ち取った3人は、助五郎に繁蔵の首を見せた。すると助五郎は「早まったことをしてくれた!」「このことは当分、誰にも言うな!」と3人を叱りつけ、首を定慶寺(じょうけいじ、現・旭市飯岡)内の笹藪の中に埋めさせ、目印に「清岩繁勇信士」と戒名を刻んだ丸石を置かせていたという。しかもこのことは、講談や浪曲などにおける「脚色」ではなかった。繁蔵の胴体が発見された翌年、有志の人々が定慶寺内を探索したところ、確かにそこからしゃれこうべが発見されたのだ。死後85年を経て、繁蔵の体は元の状態に戻り、諏訪大神からほど近い延命寺に葬られた。そして、豊子が建てていた石碑も、寺内に移された。定慶寺には改めて、繁蔵の首塚が建てられた。
冒頭の問いに戻るが、果たして繁蔵の一生は「不運」だったのか。それとも不慮の死を遂げた、『天保水滸伝』の英雄・繁蔵の魂がようやく浮かばれると、地域の人々が町を挙げて、盛大な埋骨式や供養を行ったことは「幸運」だったのか。答えは人それそれで、その判断に正解はないだろう。そもそも、人は死んでしまったら「おしまい」なのか?そうは思いたくないが、不慮の死を経ての、繁蔵の遺体再発見のエピソードは我々に、死んでしまっても、「おしまい」ではないと教えてくれているように思われる。
参考資料
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■三浦譲(編)『全国神社名鑑 上』1977年 全国神社名鑑観光会史学センター
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■石橋良子「笹川繁蔵」千葉日報社(編)『千葉大百科事典』1982年(359頁)千葉日報社
■森田保「天保水滸伝」千葉日報社(編)『千葉大百科事典』1982年(646頁)千葉日報社
■森田保「平手造酒」千葉日報社(編)『千葉大百科事典』1982年(793-794頁)千葉日報社
■井上準之助「天保水滸伝と村々」国際商科大学論叢編集委員会(編)『国際商科大学論叢 商学部編』1983年(121-131頁)国際商科大学
■森安彦「飯岡助五郎」大隈和雄・西郷信綱・阪下圭八・服部幸雄・廣末保・山本吉左右(編)『日本架空伝承人名事典』1986年(50頁)平凡社
■森安彦「笹川繁蔵」大隈和雄・西郷信綱・阪下圭八・服部幸雄・廣末保・山本吉左右(編)『日本架空伝承人名事典』1986年(233頁)平凡社
■森安彦「平手造酒」大隈和雄・西郷信綱・阪下圭八・服部幸雄・廣末保・山本吉左右(編)『日本架空伝承人名事典』1986年(395頁)平凡社
■野口政司『天保水滸伝余録』1989/1999/2000/2019年 野口政司(刊)
■千葉県立大利根博物館(編)『特別展 「天保水滸伝の世界」展示図録』1993年 千葉県立大利根博物館
■米谷博「利根川の水運」安藤操・久保木良・地域文化研究会(編)『写真集/佐原・小見川の昭和史』1994年(28頁) 千秋社
■吉田茂「利根川流域紀行 最終回 天保水滸伝の里と銚子」『歴史と旅』No.22 1995年7月号(224-229頁)秋田書店
■釣洋一「探墓巡礼(5)天保水滸伝の立役者 平田三亀(その1)」『歴史研究』No.413 1995年10月号(80-81頁)戎光祥出版
■釣洋一「探墓巡礼(6)天保水滸伝の立役者 平田三亀(その2)」『歴史研究』No.414 1995年11月号(80-81頁)戎光祥出版
■今川徳三「飯岡の助五郎VS笹川の繁蔵」『歴史と旅 臨時増刊号 日本史ライバル総覧』No.23 1996年11月号(322-325頁)秋田書店
■米谷博「−流域に生きる人々− 勢力富五郎の誕生 −江戸で生まれた天保水滸伝−」利根川文化研究会(編)『利根川文化研究』No.16 1999年(66-75頁)利根川文化研究会
■石井進・宇野俊一(編)『千葉県の歴史』2000/2012年 山川出版社
■米谷博「−流域紀行− 利根川下流域と相撲」利根川文化研究会(編)『利根川文化研究』No.25 2004年(123-136頁)利根川文化研究会
■千葉県高等学校教育研究会歴史部会(編)『歴史散歩12 千葉県の歴史』2006年 山川出版社
■川名登(編)『千葉県の歴史100話』2006年 国書刊行会
■斎木勝・西山太郎(監修)『香取・海匝の歴史』2010年 郷土出版社
■米谷博「利根川下流域の河岸遊郭と地域社会」佐賀朝・吉田伸之(編)『シリーズ遊郭社会 1 三都と地方都市』2013年(251-282頁)吉川弘文館
■筑紫敏夫(監修)土屋浩『房総と江戸の交流史』2015年 雄山閣
■米谷博「無宿勢力一件から『天保水滸伝』へ −英雄化する博徒たち−」利根川文化研究会(編)『利根川文化研究』No.39 2015年(31-46頁)利根川文化研究会
■東庄町(編)『東庄町誕生60周年記念写真帖 故(ふる)きを温(たず)ねて −ふるさとの原風景と今日までの確かな足跡−』2015年 東庄町役場
■東庄町観光協会・東庄町観光ガイドの会『天保水滸伝ぶらり散歩MAP』2016年2月
■村松梢風(編)『義と仁叢書 5 侠客の世界 −江戸から昭和まで−』2016年 国書刊行会
■白柳秀湖(編著)『義と仁叢書 8 親分子分〔侠客〕の盛衰史 町奴・火消・札差=旦那・博徒=義賊』1912/1916/1930/1956/2016年 国書刊行会
■「『ちば見聞録』#057「天保水滸伝の真相~笹川繁蔵と飯岡助五郎~」(2016.4.30放送)【チバテレ公式】」『千葉テレビ放送(チバテレ)』2016年4月30日
■今井照容「日本侠客伝 天保水滸伝の巻 その1 笹川繁蔵」『歴史通』2016年9月号(126-128頁)ワック株式会社
■今井照容「日本侠客伝 天保水滸伝の巻 その2 繁蔵と助五郎」『歴史通』2016年11月号(142-144頁)ワック株式会社
■今井照容「日本侠客伝 天保水滸伝の巻 その4 平手造酒」『歴史通』2017年4月号(181-183頁)ワック株式会社
■城西国際大学水田美術館(編)『浮世絵でつづる房総人物伝』2018年 城西国際大学水田美術館
■村上幸史『幸運と不運の心理学 運はどのように捉えられているのか?』2020年 ちとせプレス
■「神田伯山「天保水滸伝〜相撲の啖呵」【全7席】」『神田伯山ティービィー』
■「あさひ探訪 飯岡助五郎と天保水滸伝」『旭市』2020年11月10日
■「天保水滸伝(笹川繁蔵)」『東庄町』2022年1月31日
■『千葉県公式観光物産サイト 丸ごとeちば』