あらゆる宗教の中で最も慕われている神仏聖人といえば聖母マリアではないだろうか。一神教であるはずのキリスト教において、マリア信仰は根強いものがある。それはなぜか。
聖母マリアは元々脇役だった
そもそも聖書におけるマリアの存在は際立ってはいない。むしろ脇役である。有名な受胎告知とイエス生誕など、出番はわずかであくまでイエスの母以上のものではない。まして私たちがイメージする愛情と慈しみに満ちた母としての描写などはイメージほどには見いだせない。「聖書のみ」「聖書に帰れ」とするプロテスタントがマリアを軽視するのは当然であった。
4世紀頃に「テオトコス(神を生んだ者)」とされた聖母マリア
それが4世紀頃「テオトコス」(神を生んだ者)との尊称を受ける。キリスト教は特異な宗教である。ブッダやムハンマドは人間であるし、ゼウスやシヴァは神である。これらに対しイエス・キリストは神の子が人の身体を纏った受肉した存在だとする。その受肉の瞬間が受胎告知である。天使ガブリエルが処女であるマリアに天の御子が授かったことを告げたという。ドラマチックではあるが、御子が受肉するための単なる代理母と言えなくもない。当時マリアへの「テオトコス」の尊称には反対の声も多く、理由はまさにそれで、イエスという存在を生んではいても「『神』を生んだ」と言えるのかという疑問であった。コンスタンティノポリス大主教ネストリウス(381?〜451?)も反対する一人で、異議を唱えたことで論争が勃発した。その結果、エフェソス公会議(431)においてネストリウスの一派は異端とされ「テオトコス」が認められた。マリアはイエス同様、公式に崇敬の対象となったのである。
ローマ・カトリックの聖母マリア
ローマ・カトリックではマリアに特殊な属性が与えられた。「無原罪の御宿り」はマリアは「原罪」を持たないという属性である。人間はアダムとエバが犯した「原罪」を背負った存在だが、聖霊によって身籠ったマリアに原罪があるはずがないとする。「聖母の被昇天」というのもある。カトリックではマリアは死後、霊が肉体と共に天に上げられたとされている。
これほどの聖人であるから、その清らかさも並みではない。マリアは生涯をつうじて童貞(処女)であったと説かれる。「聖母」に処女性が付与されるのはキリスト教ならではといえるだろう。神話の中で語られる「神」が人の肉をまとい、現実世界で教えを説いたとする特異な奇跡「受肉」。そこでは人の子が生まれるには母体が必要という当たり前の事実と、神の子の生誕には当たり前ではない奇跡が両立しなければならない。処女懐妊は神がこの世の理に従って世に出た証なのである。
ギリシャ正教の生神女マリア
東方ギリシャ正教では「生神女マリア」といい「マリア」と固有名詞で気安く呼ぶことは少ない。カトリックと同様聖人としては飛び抜けた存在である。東方正教のシンボルといえる「イコン」においてもマリアの肖像の存在感はキリストに劣らない扱いである。しかし東方正教ではマリアに関する神学的な定義はほとんどなく、カトリックが定義した属性は一切認められていない。正教においてもマリアの死に際しては特別な奇瑞があったとされてはいるが、被昇天のような大胆な属性は見受けられない。無原罪に至っては元々正教ではカトリック的な原罪の思想が否定されている。それでもマリアは祝福された特別な人間である。なお、プロテスタントでは聖書に記述されていないこれらの属性は一切認めておらず、マリアに関して正教はカトリックとプロテスタントの中間的な位置にある。
母への想い
聖書は偶像崇拝を禁じており、カトリックも正教会もマリア「崇敬」であって「崇拝」ではないことを強調する。マリアはあくまで人間であり、神を生んだ聖人として尊敬されている存在ということである。しかしマリア信仰は世界中で根付いている。はっきり言ってイエス以上の人気があると言ってもよいだろう。
聖母は「とりなし」の存在とされる。神に向かって物申すのは畏れ多いが聖母になら甘えられる。聖母は私たちが神に伝えたいことをとりなしてくれる優しい母なのである。キリスト教の原理原則はともかく、迷える庶民にとってマリアはまぎれもない聖母なのだった。
その母への想いは、かくれキリシタンのマリア観音にも見ることできる。キリスト教禁制の世にあって地下に潜ったキリシタンたちは、観音像に見立ててでもマリアの可視化をやめなかった。マリアが脇役なら危険を犯してまでそこまでする必要はない。彼らの孤独な心を癒やしてくれたのは聖母の慈愛だったのではないか。
ルルドやファティマに出現した存在も他の聖人や諸天使ではなく聖母だった。幻覚にせよ、何らかの超常現象にせよ、私たちが母に対して抱く、頼りたい、甘えたいという意識と無縁ではないと思われる。母への親愛が聖母信仰を生んだのである。
人のぬくもり
母、母性というものは生命の故郷である。ギリシャの地母神ガイアがそうであるように、母なるものは生む存在である。「母なる海」「母なる大地」。私たちも母から生まれた。絵画や彫刻のマリア、御子を抱き微笑むマリアは慈愛にあふれている。あまりに偉大すぎて名前すら軽々しく口に出せない一神教の神には無い、温かいぬくもりこそがマリア信仰の根幹なのだろう。その意味で確かにマリアは神ではなく人間なのである