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死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは

宗教の経典は現代人からすると神話・おとぎ話にしか見えないだろう。特に論理的思考を自負するインテリにはなおさらである。しかし自身の死などの限界状況に陥った時もその思考を保っていられるか。そのとき宗教の「おとぎ話」は切実なリアリティを持つ。

死が近づいても知性は正常でいられるか?仏典や神話が果たす役割とは

石原慎太郎と法華経

石原慎太郎氏(1932〜2022)の絶筆「死への道程」が文藝春秋に掲載された。余命宣告を受けた石原氏は「私の神経は引き裂かれたというほかない」と齢90にして死を恐怖し、生に執着する。そして最後は「死は存在しない。俺が死ぬだけだ」と締めている。俗世への隠せない執着や最後の開き直りは無頼な文学者らしい終わり方といえる。

しかしこの絶筆には欠けているものがある。「仏典の王」と言われた大乗仏教経典「法華経」である。石原氏といえば法華経に傾倒しており、自ら現代語訳まで著している。それほど範にしていたにもかかわらず、この絶筆には「法華経」について全く触れていない。それどころか仏教そのものにすら言及していないのである。絶筆にはヘミングウェイとジャンケレビッチ、美空ひばりの名が挙げられているのみであった。

「私の神経は引き裂かれた」。氏と法華経の関係を考えたとき、宣告を受けた氏の衝撃は意外なものだと感じてしまう。これほど生死の真理を説く仏法を深く学んでいた人でも、限界状況に直面したときはこうなってしまうのかと。しかも絶筆の直後のに掲載された息子の手記によると、「俺は女々しく死んでいくのだ」と話していたとある。リアルな死の前に法華経は何の役に立たなかったのか。死の宣告の前に仏法は吹き飛んでしまったのだろうか。

それは浅い理解かもしれない。彼ほどの文学者である。凡人にはわからない深遠かつ高度な理由で、あえて法華経に触れなかった可能性はある。悟りすまして格好つけるより「女々しく」死ぬ方が味わい深いといえなくもない。ヘミングウェイの不能を比較して、自分はまだ元気だと誇るあたりは彼らしくもある。しかし彼の著書には仏教を哲学として捉えているふしが見える。そこに綻びがあったのではないか。

知性か神話か

いわゆる葬式仏教の形骸化とは対照的に、哲学的な仏教や、マインドフルネスなど宗教色を排した形での仏教は人気が高い。「仏教は宗教でなく哲学である。仏教は無神論である」「釈迦は霊魂や超越神を否定した」云々。現代人はこうした非宗教的なテーゼにひかれるようである。実際釈迦自身が説いたとされる「無記」「無我」「無常」といった論は、いかにもクールな論理が展開されており、知性的論理的を自負するインテリには特に受けるようだ。

元々仏教は他の宗教に比べて理屈っぽい。精緻なインド哲学から誕生した仏教は、江戸時代によく行われたキリスト教との宗論では圧倒することが多かった。仏教の精緻さに比べると聖書はいかにも「おとぎ話」に見える。その仏教も自身の悟りから、他者の救いに重きを置く大乗仏教となるとキリスト教のような神話的な物語に変わってくる。

法華経には無数の仏が地の底から湧き出てくる幻想的な様子などが、聖書に劣らない文学的表現で描かれている。また法華経においては史実の釈迦は仮の姿であり、釈迦自身は気の遠くなるような過去から未来にかけて永遠に存在し真理を説いていると説く。これを「久遠実成の釈迦如来」と呼ぶ。浄土仏教の聖典「無量寿経」でも、法蔵菩薩という王子が気の遠くなるような年月を経て、阿弥陀仏になったと説かれている。もちろん神話であり、論理どころの話ではない。大乗仏教にもその根幹には中論、唯識、華厳などの精緻な哲学が完備されている。ではこれらの「おとぎ話」にしか見えない物語は何を示しているのだろうか。

崩壊する「知」

哲学は頭の中で理屈をこねくりましているだけの学問ではない。プラトン、アリストテレスらギリシャの賢人は宇宙の真理について深く思考した。彼らは哲学とは世界が「存在」することに対する「驚き」(タウマンゼイン thaumazein)であると言っている。存在とは何か、生とは、死とは。哲学は答えの出ない問いを永遠に考え続ける。池田晶子(1960〜2007)は哲学は何かについて「何の役にも立たない。かえって困る、苦しくなる」。ただの「癖」だと身も蓋もなく言い切った。哲学は救われるためにあるのではない。かくして救いを求める民衆は、現代の知識人が範とする知の芸術・ギリシャ哲学より「おとぎ話」であるキリスト教を選んだ。限界状況において「知」は脆くも引き裂かれ、宗教という「おとぎ話」が立ち上がってくる。

さすが非凡な文学者である石原氏は法華経に基づく仏法に触れ、「大きな仕組み」「不可知な巨きな力」などと人知を超えた世界について幾度も触れ、法華経に基づく死生観を大いに語っている。まさにその世界が自身に開かれた場面を綴ったはずの絶筆には、法華経は登場しなかった。氏は「知」を超えた世界を感得しながらも、その世界に身を委ねることも「知」を捨てることもできなかったのかもしれない。無頼に生きた知識人の業といえるだろうか。

「おとぎ話」が示すもの

本来永遠なる「久遠実成の釈迦如来」である釈迦は、人の身体を持つ存在として死んだ。その理由について法華経は、永遠の存在が傍らにいては人間は怠けるからであると説く。頼れる師がいなくなり弟子たちは必死になって修行に励むようになった。人間とはそういうものだろう。リアルな死に直面した時、初めて生死とは何かに向き合う。その時、頼りの「知」は崩壊するかもしれない。仏典の「おとぎ話」はその先の、生死の向こうの世界を示唆し人を導く。この導きを受け入れるか否かが今生の最後の選択となるのである。

参考資料

■池田晶子「メタフィジカル・パンチ ー形而上より愛をこめて」文藝春秋(1996)
■絶筆 石原慎太郎「死への道程」文藝春秋 2022年齢4月号
■石原慎太郎「法華経を生きる」幻冬舎(1998 )

ライター

渡邉昇(掲載日:2022/03/29)

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