人が誰かから、いじめや誹謗中傷などの理不尽な仕打ちを受けた際、それを耐え忍んだり、運命だと諦めたり、「よくあること」「辛い気持ちは、時が解決してくれる」などとやり過ごしたりすることなく、仕返し、敵討ち、リベンジ…いろいろな言い方があるが、いわゆる復讐を行うことは、許されるものなのだろうか。
品川区西五反田の行元寺の前に建てられた石碑
東急目黒線・不動前駅からほど近い、東京都品川区西五反田に行元寺(ぎょうげんじ)という小さなお寺がある。その前に「隠語碑」と呼ばれる、1m弱の石碑がある。
明和4(1767)年に、下総国早尾村(現・茨城県北相馬郡)の百姓・大崎庄蔵は、村内の宮条甚内と口論となって、殺された。甚内は罪滅ぼしにと、隣村の寺に出家したものの、江戸に出奔し、下級武士となった。そこで庄蔵の息子・冨吉は、父親の仇を打つために江戸に出て、剣術を学び、その機会を窺っていた。時を経て天明3(1783)年に、冨吉は神楽坂で甚内と再会し、行元寺に追い詰め、念願を果たした。事件当時12歳の少年だった冨吉は28歳、甚内は45歳だった。
もともと行元寺は、明治40(1907)年に移転するまで牛込肴町(うしごめさかなまち、現・新宿区神楽坂5丁目)に所在していたのだが、寺内で軍学を教えていた南多門(塚田大峰(1745〜1832)のことか)が冨吉の念願達成を喜んで、行元寺の住職・休心和尚が願主となった石碑を、天明3〜4(1783〜84)年に立てたと言われている。
碑文は、狂歌師「蜀山人(しょくさんじん)」の名で知られる、幕臣で文人・学者でもあった大田南畝(なんぽ、1749〜1823)の撰文で、正面に「念被觀音力/還著於本人」、裏面に「癸卯天明陽月八/二人不載九人誰/同有下田十一口/湛乎水無納無糸/願主/南畝子 休心」と彫られている。この裏面の文が、「隠語」なのだ。
隠語とは
「隠語」とは、例えば1960年代末期の、東京・浅草の博徒やテキ屋の間で「エンコ」と言えば、さかさ言葉で「こうえん」のこと。つまり浅草に公園があることから、「浅草」を意味するなど、ある特定の集団や「業界」で秘密を保持し、同時に集団の外では通用しない「共通言語」を使うことによって、仲間内の団結意識を固める役割を果たす言葉である。
石碑の裏面に記された隠語の内容とは
この石碑の裏面を読み解くと、「‘癸卯(みずのとう)の天明3年10月8日’/二と人の文字を重ねて‘天’、九と人の文字を重ねて‘仇’となり、‘天を戴かない仇’、すなわち、‘不戴天の仇は誰’/同の字の下に田の字があるのは‘冨’、十一口と書くと‘吉’になるので、それらを合わせて‘冨吉’/湛の字に‘水’の‘さんずいがない’ので‘甚’、納の字に‘糸がない’ので‘内’、それらを合わせて‘甚内’」となる。つまり、天明3年10月8日に、不戴天の敵は誰だと冨吉が何年もかかって探し求め、とうとう甚内の敵討を行ったことを表しているという。当初は、行元寺の本尊である、恵心僧都(942〜1017)作と伝えられる千手観音にちなんだ経文2句のみが表に刻まれていたのだが、敵討から三十三回忌に当たる文化12(1815)年に、裏面が追加されたという。
明治になって敵討禁止令がだされた
敵討は、中国古代の『周礼(しゅうらい)』『礼記』、そして孔子(紀元前552/551〜紀元前479)などが、父の仇を非常に強い恨みや憎しみである「不倶戴天」として認めていたことに影響を受け、日本においては古墳時代の眉輪王(まよわのおおきみ、450〜456)が、父を殺して母を皇后とした安康天皇(あんこう、401〜456)を殺したことに始まり、明治6(1873)年2月の「敵討禁止」の国法が公布されるまで、さかんに行われていたという。特に江戸期においては、敵討ちは頻繁だった。
敵討ちが許されていた背景とは
それは封建制度の確立により、上下関係に厳格な武士階級において、忠臣・孝子の美徳として讃えられてきたこと。そして敵討ちそのものが、文学や浄瑠璃・歌舞伎などの演劇のみならず、今日のタブロイド紙に当たる瓦版(かわらばん)、そして瞽女(ごぜ)などの、全国を行脚する芸能者による歌物語の題材に取り上げられた。その結果、個人的な恨みを晴らすエピソードの爽快感のみならず、特に元禄15(1702)年12月14日(新暦では1703年1月30日)の赤穂浪士の討ち入り事件は、権力者の理不尽な振る舞いに対して、常々鬱憤を抱いていた、正義感に満ち、「粋」と「張り」を重要視する「江戸っ子」のみならず、日本全国の庶民層に熱狂的な人気を博したためだ。
しかしそうは言っても、武士以外の農・工・商人が行う敵討ちは、国内に騒擾をもたらす危険性があると、幕府側の懸念があったことから、必ずしも「美徳」として讃えられていたわけではなかった。それゆえ、石碑に当初はお経のみ。そして裏面の「隠語」にしても、公に「知られてはならない」ことであったことから、機知と諧謔精神にあふれた南畝が文を考案するに当たって、直接的な表現を避けるため、「隠語」で記したと考えられている。
敵討ちの是非
昭和38(1963)年10月18日の福岡県京都(みやこ)郡苅田町(かんだまち)での強盗殺人事件を皮切りに、78日間、香川〜広島〜静岡〜東京〜千葉〜福島〜北海道と78日間、日本全国を縦断しながら、強盗殺人や詐欺を繰り返し、最終的に熊本で逮捕された後、昭和45(1970)年12月11日に福岡拘置所で死刑に処せられた西口彰(1925〜1970)をモデルにした佐木隆三(1937〜2015)のノンフィクション小説『復讐するは我にあり』(1975年)のタイトルは、『新約聖書』の「ロマ書」12章19節の「愛する者よ、自ら復讐するな、ただ神の怒(いかり)に任せまつれ。録(しる)して『主いひ給う。復讐するは我にあり、我これを報いん』とあり」から取られたものである。つまり、復讐は神がすることであって、信徒は自ら手を下すのではなく、神の怒りの鉄槌を信頼し、全てを任せよと諭した言葉である。
この言葉のように、自分の心にたぎる怒りを鎮め、神様なり、「因果応報」的な運命の成り行きを期待するべきなのか。それとも、先に挙げた冨吉や、赤穂浪士など、古今東西の英雄たちのように、自らの死をも厭わず、仇に対して怒りの鉄槌を下すべきなのか。具体的な「対象」が存在するならまだしも、天変地異や疫病などのように、「結果的」に理不尽な立場に追い込まれてしまった場合はどうすればいいのだろうか。また、仇討ちを果たしたところで、失われた時間や命を取り返すことは叶わない。それでもいいからと、仇を打つべきなのか。「人道的」な見地から、自分を最悪な状況に追い込んだ人間の罪を、「赦す」べきなのか。
このように、1か0のような「数学的」な「答え」が出ない「問い」が人間社会に存在し続けるからこそ、「隠語碑」の存在意義があるのかもしれない。
参考資料
■「蜀山人の隠語碑文」『書道』1932年6月号(96-99頁)泰東書道院出版部
■「仇討碑餘談」『書道』1932年7月号(39-42頁)泰東書道院出版部
■「行元寺の仇打」『書道』1932年8月号(86-90頁)泰東書道院出版部
■小川貫道(編)小柳司氣太(監修)『漢学者伝記及著述集覧』1935年 關書院
■平出鏗二郎『敵討』1939年 冨山房
■中西慶爾『書とその風土』1968年 木耳社
■猪野健治『親分 −実録・日本侠客伝』1968年 双葉社
■浜田義一郎「大田南畝」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第2巻 1980年(631頁)吉川弘文館
■西山松之助「敵討」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第3巻 1983年(348−352頁)吉川弘文館
■共同訳聖書実行委員会(編)『聖書 新共同訳 旧約聖書続編つき』1987/1988/1995年 日本聖書協会
■竹田真砂子「牛込行元寺の仇討ち」『歴史読本』1997年1月号(96-99頁)新人物往来社
■鈴木貞夫「行元寺の仇討とその周辺」『歴史研究』1997年9月号(30-35頁)戎光祥出版
■真田信治「隠語」福田アジオ・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邊欣雄(編)『日本民俗大辞典 上』1999年(147頁)吉川弘文館
■品川区教育委員会(編)『品川区史料 (七) 石碑』1999年 品川区教育委員会
■山本純美・井筒清次『江戸・東京 事件を歩く』2001年 有限会社アーツアンドクラフツ
■品川区教育委員会『しながわの史跡めぐり』1988/1997/2005年 品川区教育委員会
■佐木隆三『復讐するは我にあり 改訂新版[文庫版]』2009年 株式会社文藝春秋
■松永十吾「敵討ち・大田南畝・行元寺」『月刊 国際税務』2009年10月号(120頁)国際税務研究会
■井上泰至『近世刊行軍書論 教訓・娯楽・考証』2014年 笠間書院
■西本浩一「江戸っ子」木村茂光・安田常雄・白川部達夫・宮瀧交二(編)『日本生活史辞典』2016年(69頁)吉川弘文館
■長江俊和「本当にあった封印事件 3 閲覧注意…鬼畜と呼ばれた凶悪犯罪者が「死刑囚」になるまで」『現代ビジネス』2018年8月22日
■『PDF版 文語訳(大正改訳)新約聖書(1950年版)』
■「牛頭山千住院 行元寺」『天台宗東京教区』