江戸時代中期、今から二百年以上前、香川県から同時期に二人の天才が現れた。一人はその名が現代でも知られる発明家・平賀源内。もう一人は、町医者にもかかわらず西洋医学まで学んだ医師・合田求吾である。同郷で年も近い二人の天才は、まったく正反対の人生を歩んだ。どのような人生だったのか、その軌跡を二人の墓碑銘から見ていきたいと思う。
非常の人 平賀源内(1728~1780)
江戸時代の天才をあげよ、と聞かれたら、平賀源内を思い浮かべる人は多いと思う。エレキテルは言うに及ばず、土用の丑の日の鰻、正月の神社の破魔矢など、死後二四〇年以上たった今でも日本に残る習慣を考案したマルチクリエイターであった。自分の才能は狭い讃岐に抑え込んでおくべきではないと三十三歳で脱藩し、様々な事業、百を超える発明品、さらには浄瑠璃、滑稽本、蘭画というジャンルにまで手を広げ、意のままに己の才能を発揮したように見える源内であったが、彼の脱藩は「仕官御構(おかまい)」という条件つきのものであった。つまり、他藩へ仕官することは許されなかったのである。
そのため、源内は一生、浪人として過ごすこととなり、その半生は彼の天才に見合うに相応しいものではなかった。他藩、あるいは幕府に召し抱えられていれば、滑稽本や浄瑠璃に手をだすこともなかったのである(滑稽本、浄瑠璃は大ヒットしたらしい)。それは彼の最期においても現れている。源内は家の改築を依頼した大工が設計図を盗んだと思いこみ、誤って斬り殺してしまう。小伝馬町の牢獄に捕らえられた源内は、その牢内で破傷風にかかり獄死してしまう(これには諸説あるようだが、記録ではそのようになっている)。「解体新書」を著したことでも知られる杉田玄白は、源内と無二の親友であり、その死を惜しんで墓碑銘に次のような言葉を残した。
平賀源内の墓碑銘
「ああ非常の人 非常の事を好み 行い是れ非常 何ぞ非常の死なる」
非常の人とは、尋常ではなく凡人の域を超えた人という意味である。意訳をすれば、好みも行いも常識を超えていた源内よ、なんで死に様まで非常識か! となるだろうか。この墓碑銘は東京都台東区橋場にある源内の墓所で見ることができる。
温恭の人 合田求吾(1723~1773)
同じ時代、同じ讃岐にもう一人の天才がいた。彼の名は合田求吾。杉田玄白が「解体新書」を著すより十二年早く西洋式解剖書・西洋式内科書をまとめた「紅毛医言」を著した医師である。残念ながら、その本は刊行されなかったが、江戸時代中期、現在の香川県観音寺市の豊浜という言葉はわるいが片田舎に、それほどの西洋医学の知識を持ち合わせたいわば町医者がいたということに驚きを禁じ得ない。
京都や江戸で学んだ求吾は、三十九歳のとき長崎に遊学し、オランダ通詞の吉雄耕牛・蘆風兄弟の門弟となり最新の西洋医学を学んだ。吉雄耕牛には源内や玄白も師事していた。求吾は長崎からの帰郷後、名医としてその名が人々の間に知られることとなり、遠くからも病人が訪れるようになった。また、自身の知識を伝えようと大勢の弟子も受け入れたようである。源内が「非常の人」として非業の死を遂げたのに対して、求吾は「温恭先生」と弟子や患者たちに慕われる死であった。その墓碑銘も源内とは正反対のものになっている。
合田求吾の墓碑銘
「先生は天資温和にして人の善を賞揚し、よく父母につかえ、仁術をもって皆をよろこばせ、郷里の人々によく学問を教えた」
求吾の墓碑銘は、香川県の豊浜墓地公園に現存している。瀬戸内海に面したそこは、その名のとおり温恭(おだやかで慎み深い様子)な場所である。
合田求吾と平賀源内が生きた時代
江戸時代、日本は鎖国をしていたため、現代の目から見ると日常的に閉鎖的な堅苦しい時代と捉えがちだが、「解体新書」が発行されたことでも分かるように、求吾と源内が活躍した時代は徐々に西洋の風が入り始めた時代でもあった。逆に言えば、西洋を取りいれないと、立ちいかないような時代でもあったのかもしれない。二人の天才は、そのような時代の風に乗り、江戸、長崎、日本各地に飛び、己の才能を信じて進んでいった。そして、その生きざまは墓碑銘に刻まれ、後世の我々は、彼ら二人の人生、人柄に想いを馳せることができるのである。
求吾と源内に直接の交流を示すものは残っていないが、二人は同時期、江戸にいたことがあった(1756(宝暦6)年から数年間)。広い江戸の町中で、二人がすれ違うようなことがあったかもしれないと思うだけで、どこかワクワクするものを感じるのである。