私たちはもう少し楽に生きられないだろうか。多くのものに縛られ、固定観念に囚われ、本来悩み苦しむ必要はないのに、自分からその原因に執着し手離そうとしない。決して楽とはいえない生活の中で妙好人たちは自由に生きた。彼らはこの世にいながら、すでに極楽浄土にいたのである。
妙好人とは
平田篤胤(1776~1843)から「乞食以下の仏教」と呼ばれたように、最底辺最下層の人たちに寄り添った浄土真宗も本山である本願寺は貴族化してしまう。一方で在野には信仰深き篤信者がいた。それが妙好人と呼ばれる、その信仰の深さが広く知られている人達である。
妙好人の名は中国浄土系仏教の大成者・善導(613〜681)の「念仏者はこれ人中の好人、人中の妙好人」に由来するとされる。赤尾の道宗(?〜1516)、浅原才市(1850〜1932)らが有名。いずれも無知無学文な民草であった。本来なら周囲から軽んじられるような人たちでありながら、その境涯の一端でも触れようと彼らを中心とした法座が開かれ、遠方からも多くの人が集った。この高名な僧侶でも禅師でもない市井の賢者たちは、鈴木大拙(1870〜1966)らが紹介することで世に知られるようになった。
妙好人の中でも讃岐の庄松(1799 ~1871)の存在は際立っており、その天衣無縫の極みといえる逸話を多く残している。
阿弥陀仏に赤子のように甘えていた庄松
庄松は讃岐国大内郡土居村(現 香川県東かがわ市土居)の農村に生まれ、真宗興正派・勝覚寺の門徒であった。生涯独身で僅かな田畑を耕し、縄を編んだり草履づくりなどをして暮らしたという。
そのような時にふと、阿弥陀仏の慈悲のことを思い出すとすぐに仏壇を開き、御本尊(阿弥陀仏)に向かって「バーアバーア」と甘えだしたという。庄松は自身が「親様」と呼ぶ阿弥陀仏に赤子のように甘えているのである。現代でいい年をした大人の男がこのようなことをすればかなり問題である。いや、この時代ですら奇行の類であろう。だから伝えられているのである。
神仏とは本来崇め奉られるものだが
このような信仰態度はありそうでない。神道やキリスト教の信仰者が、神社の本殿や十字架のイエス・キリストにすり寄って甘えるだろうか。神仏とは敬うものであり、同時に畏れるもの、崇め奉るものである。しかし庄松は阿弥陀仏にすべてを委ねていた。すべてを委ねるとは親に抱かれる赤子と同じである。阿弥陀仏は広大な慈悲を持って包み込んでくれる「親」なのである。
阿弥陀仏を親だと信じた庄松の逸話
庄松はまた暑い夏の日、御本尊が描いてある掛け軸を竹に吊るし「親様も涼しかろう」などと言っている。庄松がクリスチャンだったら、十字架のイエスに「寒かろう」と毛布でもかけてあげたに違いない。
ある人が勝覚寺の本堂で横に寝ていた庄松を咎めた。庄松は「親の内じゃ遠慮に及ばぬ」と意に介さなかった。阿弥陀仏に対して生真面目な人から見れば、無作法極まりない態度である。しかし親に遠慮する子はいない。そのようなことをすれば、子供が親に遠慮するものじゃないと返って叱られるだろう。子が親に甘える。庄松にとって阿弥陀仏は誰よりも親しい存在なのである。
自由過ぎた庄松
すべてを阿弥陀仏に委ねている庄松は世事にこだわらず、固定観念に囚われない。文字が読めない庄松に、このお経はなんと書いてあるのかと問えば、「庄松を助くるぞよ、助くるぞよと書いてある」。地獄や極楽は眼に見えないので疑いが晴れぬと言えば、「この向こうの山の南に阿波という国があるぞ」と返す。
生死すら阿弥陀仏に任せきっているのだから、不慮の災難にも動じない。ある時、庄松が船に乗船中、暴風となり沈没の危機に瀕した。多くの信仰厚きはずの人達が波を鎮めたもうと怯え祈る中、庄松は高いびきだったという。いくら度胸があるといっても寝てる場合ではない状況に、ゆすり起こされた庄松は「ここはまだ娑婆か」。まるで寝起きの幼子である。庄松にすれば娑婆にいようと浄土にいようと同じ阿弥陀仏の掌の上。同じことなのだった。
それが故に人から求められた庄松
このような庄松であるから無知無学な市井の民であるにもかかわらず、話を聴きに来る人は絶えず、招かれて法座を開くこともあった。そればかりか本職の僧侶、住職からも教えを受けることもあるほどだ。庄松はとにかくあちこちの寺に逗留しており、法座を開いて教えを説くこともあれば、寺男として雑用をこなしたりもした。庄松にとってはどちらが上も下もない。阿弥陀仏に救われながら自由な日々を送っていたのだった。
庄松大往生
そんな庄松にも極楽往生の時が訪れる。見舞いに来た同行(信者仲間)たちが、庄松が死んだら墓を建ててあげようと言うと「俺は石の下にはおらぬぞ」と言った。すでに阿弥陀仏に委ねている、つまり死ぬまでもなく往生している身なので、墓のに中にいるはずがないのである。墓の中にいないといえば「千の風」を連想させるが、あの文学的な死生観とは異なる、宗教的境涯と言わなければならない。庄松には阿弥陀仏という明確な、誰よりも頼り甘えられる他者がいたのだった。
いよいよ臨終が近くなった庄松は縁者、同行に蓮如(1415〜1499)が教義を手紙の形で分かりやすく書いた「御文章」を拝読してもらった。修行をしない真宗では聴聞を非常に重視する。庄松は御文章を聴聞して「ああ、じょうぶじゃじょうぶじゃ」と喜んだという。「じょうぶじゃじょうぶじゃ」には、何ともいえないしみじみした味わいを感じる。まさに大往生であった。
庄松に学ぶこと
現代人が庄松のような境涯になるのはほぼ不可能だ。多くは知性、知識、教養を捨てたくはない。それはいかに自分が賢しらな世間の常識に執着しているかということに他ならない。もっと楽に生き、楽に死ねればと思いつつ、様々なものを抱えて捨てられない。私たちは庄松に比べ遥かに賢く裕福なはずなのに、庄松の足元にも及ばない凡夫なのだ。金も地位も知識もなく、救いと安心の生涯を全うした庄松ら妙好人の人生は、現代でこそ生きてくるのではないだろうか。
参考資料
■清水順保「庄松 ありのままの記」永田文昌堂(2019)
■梯実円「妙好人のことば」法蔵館(1989)
■寿岳文章 編「柳宗悦 妙好人論集」 岩波書店(1991)
■鈴木大拙「日本的霊性」岩波書店(1972 )
■「浄土の本」学研(1993)