宗教の人口はキリスト教、イスラム教、ヒンドゥー教がほぼ不動のベスト3である。仏教は資料によって異なるが4位5位。近年急上昇なのが無神論・無宗教である。自称・仏教国の日本人が実際は特定の信仰を持っていない層が多いと思われる事から、実質的には無宗教が繰り上がる可能性が高い。科学時代に宗教は消え去るのか。しかし知性と信仰の歴史を振り返るとそう単純にはいかないように思える。
神話の時代
原始の時代。自然災害、理不尽な不運、人知を超えた現象、現実に人間は無力であった。そしてその背後に超越的な存在を見出し、畏れ、敬った。山には山の神が、海には海の神がいた。雷の原因はゼウスや雷神の怒りである。あらゆる現象は擬人化され数々の神話が生まれた。
哲学の時代
やがて「知」の革命が起こる。神話的人格的な神々を卒業した人間の知性は、世界の根本原理を追究する方向へ向かった。カール・ヤスパース(1883〜1969)は、紀元前800年頃から200年にかけて世界の各地に優れた思想家が現れ、「枢軸時代」と呼ぶ精神史に重大な時代を迎えたとしている。古代ギリシャの哲学者、科学者、数学者らは、理性の目で世界の根本原理を志向した。インドでは宇宙の根本原理「ブラフマン」を見出し、精緻を尽くしたウパニシャッド哲学が生まれた。その後、仏教が起こる。仏教は無神論とされるほど哲学的な宗教であった。中国では「諸子百家」が様々な学究を競い合った。特に隆盛を誇り二分したのは儒家と道家である。孔子は「怪力乱神を語らず」、老子、荘子は「道」を説いた。「道」とは無形でありかつ全ての根本原理である。そうした中で人格神を説く墨子の思想は歴史に消えた。人間の精神は素朴な信仰から根本原理の追究へ、知性の時代となった。
宗教の時代
このまま現代に至る科学の時代へ進化してもよさそうなものだが、時代は再び神仏への信仰が蘇った。キリスト教の出現である。その猛威は度重なる迫害を押しのけ、ギリシャの後を継いだローマの国教として君臨することになる。プラトンやアリストテレスの哲学書と比べれば、聖書は荒唐無稽な神話の集まりといえる。しかし人類至上に輝く知の体系ギリシャ・ローマの哲学は、神話的なキリスト教にとって変わった。
インドでは仏教がヒンドゥー教によって駆逐された。ヒンドゥー教はバラモン教にヨーガ哲学が加わったものである。ヨーガ哲学の根本であるサーンキヤ学派は無神論的な二元論を展開ししていたが、理論や形式的な儀礼より「信愛」を重視するバクティ思想が生まれた。その対象は人格神・ヴィシュヌである。さらにシヴァ、ブラウマーが加わり3神となり、多種多様な神々が織りなすヒンドゥー教が成立し信仰を集めた。
一方仏教はインドからは完全に姿を消した。仏教がインドで滅んだ理由にイスラム教の圧迫を挙げる説もある。イスラム教が寺院を破壊したのは事実であり、仏教は内からヒンドゥー教、外からはイスラム教によって滅んだといえる。いずれも無神論的な哲学としての面が強い仏教が人格神信仰に敗北したことになる。
その仏教は中国で大きく変化した。阿弥陀如来を信仰することで極楽浄土へ往生すると説く浄土思想、ヒンドゥー教との融合によって生まれた多様な神仏を信仰する密教など。ヒンドゥー教に劣らない多神教である道教も流行した。中国もまた禅を例外として大筋では、人格的な神仏への信仰が哲学的知性を飲み込んだといえる。
科学の時代
宗教の時代が長く続くと次は知性の逆襲が始まる。キリスト教支配にあった中世の欧州では、人間復興運動というべきルネッサンスの時代が到来した。人類は神からの解放を目指す。カトリック教会がガリレオを抑えつけても、人間の知性は止まらない。地球は回り、人類は翼を得た。そして月へ飛んだ。神が裁きを下さなくても人類は地球を破滅させる力を手に入れた。神に祈らなくても不治の病は次々に克服されていった。宗教は過去の遺物、神の存在は非科学的のレッテルを貼られた。世界の半数は無神論・無宗教の社会主義国家となった。科学の勝利、知性の時代であった。
癒やしの時代
現代は科学時代と言われるが、数値化できる目に見える世界がすべてということは、この世界以外の逃げ場はないということだ。しかも核開発、環境汚染など科学に対する不信感も増す一方である。科学による明るい未来が微妙なものになった時代、この世界を超えた存在と、それによる「救い」や「癒やし」が求められる。無神論国家・ソ連が崩壊した後のロシアでは、それで圧迫され続けてきたロシア正教が復活した。やはり知だけでは生きていけないのだ。そうした人間の弱さの間隙を塗って、オウム真理教のようなカルトが入り込むこともある。それでも時代は三たび、信仰の道を歩むのかもしれない。
救われたい存在
駆け足で概観したが、実際はここまで単純ではない。例えば西欧キリスト教はギリシャ哲学を取り入れることで成立した。それでもその事実は、知性と信仰のいずれも必要であることの証明である。我々はこれからも知性と信仰の間で揺れ続ける。それは人間は生・老・病・死から救われたい存在だからである。時には科学に、時には宗教に救いを求める歴史はこれからも綴られていく。