スピリチュアル、スピリチュアリティという言葉には胡散臭い印象が少なからずある。宗教絡みの事件事故も多い。しかし何事も付き合い方次第ではないだろうか。安心安全なスピリチュアルライフを送るにはどうすればよいか。
スピリチュアルの危険性
いわゆるスピリチュアルの危険性は挙げればキリがないが、特に厄介なのは自意識の肥大化である。哲学などを学んでいる人によく見られるのだが、精神的な世界で抽象的な概念を操っているせいか浮世離れが甚だしくなる。さらに一部の人は現実世界を軽視し、常識を疑うようになる。常識を疑えというのは悪いことではないが、この場合はあまり良い方向ではなく疑うというより見下しに近い。元々が現実世界に寄与する分野ではなく、大抵は食えないので不遇をかこつことの方が多い。そのルサンチマンもあってか、ある種の偏狭な特権意識が芽生えてくる。「俺は金も地位も無いがそんなものは下らない。俺は精神的なエリートだ」というわけである。
「混ぜるな危険」の宗教とスピリチュアル
これが宗教となるとさらにタチが悪い。純粋理論の哲学と違い神仏や超越的存在といった「他者」が介入してくるのである。「神が降りた」「光が見えた」「天の声を聞いた」者の下には現実に苦しむ人たちが救いを求めて集ってくる。教祖となった者にはそれなりのカリスマが宿るものである。信者たちには教祖の言葉が絶対となり、これが最悪の方向に進むと霊感商法、インチキ療法、「除霊」と称したリンチ殺人、天国へ行くなどとして集団自殺にまで発展する場合などがある。現状の不安不満をこの世を超越した価値観に寄り添うことで満たされたい自意識の肥大化がもたらす悲劇である。
これらにはニーチェ(1844〜1900)のキリスト教批判がそのまま当てはまる。迫害されたユダヤ人は唯一神に選ばれたとする選民思想にすがり、その後成立したキリスト教は富める者より貧しき者を優位に置いた。ニーチェによれば、キリスト教はこの世の不遇をあの世の裁きで晴らす恨みつらみの宗教ということになる。また、現代スピリチュアル文化は新旧問わず特定の宗教宗派に属さない脱組織化、個人化の傾向が強いが、これには危険な面もある。正式な師にも付かず、神秘体験をしたいと密教の瞑想やクンダリニー・ヨーガなどに手を出せば心身に異常をきたす可能性がある。他者との交流が無いため自意識の肥大にも陥りやすい面も指摘したい。
精神世界や神秘体験などには深い沼があるのだ。占いやパワースポットで収まればよいが、人格や人生に弊害が生じては遅いのである。
スピリチュアルの必要性
これだけスピリチュアルの弊害を述べてもなお、必要であると考える。科学的唯物論にも弊害はあるからだ。唯物論では意識は脳内の電気反応、霊魂は幻覚、あの世・生まれ変わりはおとぎ話。人は死んだら土に還るのみ…云々。潔よいには違いない。しかしそこまでクールに割り切れるか。魂がない人間はAIと何が違うのか。さらに目に見えない超越的な存在への畏敬の念も消えてしまえば、それらを敬い感謝する必要もなく、畏れることもない。その果ては快楽主義、金銭至上主義が待っている。人生一度きりなら欲望の赴くままに生きた方が得というわけだ。それでも楽しんだまま死ねればよいが、そうもいかない。死はあらゆるこの世の快楽を否定する。死は唯物論の次のステージである。そこに支えが何もなく耐えられるだろうか。また普段生きる上でも、この世を超えた世界を意識することで見方が変わる場面があるはずだ。苦しくても置かれている状況でも意味を見出したり心が豊かにもなれる。
伝統宗教を通してスピリチュアルと安心安全に付き合う
安心安全なスピリチュアルライフを送るには、スピリチュアル的な世界と無難に付き合うことである。あくまでその一案としてだが、仏教、神道、キリスト教など伝統宗教。その本家本元の宗派教派の門を叩くことを提案したい。つまり高野山真言宗、浄土真宗本願寺派、ローマ・カトリック教会などである。元々は伝統的な宗派であっても分派したものの中には、悪い意味での新興宗教と変わらないものもあるので注意が必要である。要するに歴史があり地域にも浸透しているメジャーな神社仏閣教会なら間違いない。
そのような場所では正式に入信しなくても、法話会、座禅会、ミサ、勉強会などに参加できる。これらは無料か精々ワンコインである。後発の新興宗教団体は強引な布教や商法に走る傾向が強くなるが、古くからの檀家や氏子らに支えられている伝統宗教にその必要はなく、部外者も気楽に参加できる。寺や教会では様々な人と触れ合え、脱組織化、個人化による弊害も解消できる。さらに長い歴史を通じて良くも悪くも毒気が抜かれており、空中浮揚やら難病回復やらの強烈なインパクトがない。若者には物足りないかもしれないが、生半可な瞑想などで陥る危険もなく安全であるし、自意識の肥大化などの大きな問題も起きにくい。また、これはという宗教宗派の入門書を読み、より高度で奥深い理論書などを読めるようになれば知的好奇心を刺激されるだろう。日本仏教の檀家制度などは批判の槍玉に挙げられがちだが、このような安心安全なスピリチュアルライフを提供する基盤であるともいえるのだ。
伝統宗教以外を否定しているわけではない
なお、新興宗教や、組織に属さない個人化がすべて悪いと言っているわけではない。大手の新興宗教団体の持つコミュニティは孤独死などを防止する機能があると筆者は考えている。この点についてはこちらで述べている通り、伝統宗教の腰は重いと言わざるをえない。その上で、確たる信念がない一般的な人が、スピリチュアルな世界を求めて玉石混交の新興宗教に関わるのはリスキーな面が多いように思える。個人化についても占いやパワースポットなどを楽しむ程度なら良いが、それ以上の深みに踏み込んで、心身の危険や自意識の肥大化に直面するリスクは常に存在する。
伝統宗教の役割
スピリチュアルブーム自体が慣習化された伝統宗教の古臭さ、堅苦しさへの反発が根底にある。しかし、他方ではパワースポットとしての神社仏閣巡りは定番となり、仏像を愛でる人も増えてきたようだ。先日もNHKでアイドルが仏像を巡る特集が組まれていた。スピリチュアルとは無難に付き合うのが一番である。何も最終解脱をしたり宇宙と一体になる必要はない。安心安全に、この世ならざる世界を楽しめばよいのではないか。その意味では伝統宗教側の責任は大きい。