岩手県盛岡市駅からバスで10分弱ほどの場所に光台寺(こうだいじ)というお寺がある。このお寺には、市指定文化財の盛岡城下絵屏風が所蔵されている。また不思議な伝説が残る源秀院殿墓所「ムカデ姫」の墓がある。ムカデ姫の由来と、それに関わる先祖の伝説を調べてみた。
ムカデ姫こと於武(おたけ)の方とは
このムカデ姫は、源秀院、名は於武(おたけ)の方という人物である。於武の方は戦国武将、蒲生氏郷の養女であり、盛岡の街と城を建造した盛岡藩二代目当主・南部利直公の正室である。彼女は、利直公のもとに嫁ぐ際、先祖である俵藤太(藤原秀郷)がむかで退治に使ったと言われる矢の鏃(やじり)を持って輿入れしてきたという。その後、ムカデ姫と呼ばれる由来にはこの先祖が関わっている。
於武の方の祖先のお話「俵藤太物語」
この物語は、俵藤太(たわらのとうた)の異名を持つ、藤原秀郷に関する伝説が書かれている。秀郷は平安前期に、平貞盛と協力して平将門の乱に将門を倒し東国を平定したことで有名であるが、この物語の中で三上山のむかで退治をする話が出てくる。その概要は次の通りである。
俵藤太物語 俵藤太によるムカデ退治の話とは
あるところに優れた武を身につけた俵藤太という若者がおり、彼が武者修行で旅をしていた時の話である。ある時、琵琶湖に通じる道が混んでおり、人が全く動かない。なんとも大きい蛇が道をふさいでおり、怖くて通れない状態になっていた。しかし、俵藤太はまったく恐れず、その大蛇を踏みつけて通っていく。その夜、俵藤太のもとに美しい女性が現れた。彼女は実は昼間に踏みつけた大蛇であり、琵琶湖に住む竜王の娘だそう。話によると、三上山に住むムカデが魚を食い殺し困っており、誰か退治をしてくれる勇敢な者がいないかと大蛇の姿になり待っていたところ、恐れず通った俵藤太を強い武将と思い声をかけたという。それを聞いた俵藤太は、早速ムカデ退治に向かう。大弓を携え三上山に向かうと、雷鳴とともに、全身黒光りの巨大なムカデが現れた。その巨大さは三上山を七巻半もあり、剣も折れてしまうほどの体の強さを持っていた。残された弓は3本。1本目も2本目もはじかれてしまうが、とうとう最後の弓になった時、「南無八幡大菩薩、加護を下し給へ」と祈り、屋の先に自分の唾を塗り、放った。(人間の唾液はむかでを溶かすと言われていた)3本目は見事ムカデ眼に突き刺ささり、白い炎が体を包み、燃やされていく。ついにムカデは灰になり崩れ落ち退治されてしまった。数日後、再び竜王の娘がやってきて、琵琶湖のそこにある竜宮城に案内され、たくさんの礼品を送られたのである。
ムカデ姫と呼ばれることになった伝説
上述した通り、このような物語が残る祖先を持ち、尚且つその物語でムカデを倒した矢の鏃を持って嫁いだ於武の方であるが、その後不気味な伝説が残っている。数十年後、於武の方が亡くなった時にその遺体にはまるでムカデが這いまわったような不気味なアザが浮き出てきたという。きっと、鏃の中に籠ったムカデの怨念にちがいないと考えた利直公は、堀をめぐらせた墓を建てるよう命じる。(むかでは水を嫌うため)そして墓に通ずる橋をつくるも、たった一夜のうちに橋が壊されてしまう。その後も何度も橋を架け直しても、その度にムカデが出てきては橋を壊した。また、於武の方の髪の毛も片目の蛇となって石垣の間から出てくるようになったことから、いつしか於武の方をムカデ姫、 墓地を「ムカデ姫の墓」と呼ぶようになったのである。
最後に…
光台寺は正式には「衆宝山 光台寺」と号する浄土宗の寺院で、盛岡三十三観音霊場の二十三番、三十三番札所になっている。盛岡城下絵屏風以外にも、阿弥陀如来立像は盛岡市内では珍しい平安期の藤原様式による古仏だそう。蓮台の上に立ち、通肩の衣装に見られる衣紋は、彫りの深い美しい波で表現された優作である。ぜひ、お近くに行った際には訪れてほしい。