無縁社会、孤独死の問題が深刻化している。SNSの普及や趣味の多様化など、むしろ昔に比べて人とのつながりを増やす機会は増えているにも関わらずである。その一因に地域コミュニティの脆弱化が挙げられるのは間違いない。横のつながりが希薄になりやすい現代社会において、社会との不適合が指摘されやすい新宗教によるコミュニティが意外な可能性を秘めている。
現代ではそもそも誰もが隣人とは一定の距離を保ちたいと思っている
「遠い親戚より近くの他人」とはよく言ったものである。いかにSNSが普及して地球の裏側に知己を得ても手が届くはずもない。日常を支えるのはあくまで隣近所である。現代社会のキーワードとしては定番に属する地域コミュニティの崩壊は、近年、リアルな危機として我々に直面しつつある。
筆者は先日転居したのだが、旧居と同様、普通のアパート・マンションであり、横のつながりは望むべくもない。筆者は詳しくはないのだが、大型団地やタワーマンションなら大所帯なら自治会やら集会所、施設内公園などが機能してまだマシなのだろうか。
いずれにせよ10世帯程度の集合住宅では隣は何をする人ぞ状態がほとんどなのは間違いないと実感している。以前住んでいたマンションでで管理者から挨拶はいらないと言われ断られてしまったこともあった。そもそも管理側がコミュニティの構築を拒否しているのだ。
その結果、孤独死が蔓延していった。
こうした「隣人の不在」は煩わしい人間関係が苦手な人には楽だろう。その一方で確実に孤独の影が忍び寄る。
近年になって孤独死の問題は深刻化しているのは、上京して一家を形成した戦後世帯の初代といえる世代が、現世からリタイアする時期に来ていることも大きい。彼らの一定数は集合住宅に居を構え、地域コミュニティに参入できない。集合住宅は孤独死製造所に成りつつあるのではないだろうか。
一方で、地域コミュニティが濃厚であることの弊害とは
昭和の時代、町内は皆顔見知りであり、○○さんの家の○○ちゃんを知らない人はいなかった。よく昭和の風景として挙げられる「醤油をもらいにくる」関係は確かにごく普通の光景であった。異変を感じれば様子を見に来てくれるような、そのような環境では孤独死などという現象は当人がよほどの人間嫌いの変わり者でもない限り起きようがない。
一方で地域全員が顔見知りという濃厚な人間関係には、排他的ムラ社会化の問題などのリスクもある。半強制的なローカルルールに悩む声や、「村八分」にされたと告発することは現代でもよくあることだ。戦時中、いわゆる「隣組」が相互監視システムとしての役割を担ったことも一面の真実である。それでもひとりで朽ち果てる悲劇だけは避けられた。人間はひとりでは生きていけないのだ。
昭和30年代の東京を描いた映画「ALWAYS 三丁目 の夕日」が大ヒットし、昭和40年代の日本を回顧する「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ モーレツ!オトナ帝国の逆襲」が子供アニメの枠を超える名作として評価が高いのは、昭和世代の懐古主義に寄るものが大きいだろう(「オトナ帝国」は懐古主義を乗り越えるのがテーマだが)。しかし、その懐古主義はただ懐かしいという以上の、「隣人の不在」という危機感と孤独への恐怖が宿っていると推察する。
新宗教のコミュニティの可能性
そのような現状にあって、筆者は常々、宗教コミュニティの可能性について考えている。特に創価学会や立正佼成会など、いわゆる「新宗教」によるコミュニティは伝統的な神社・寺院ら既存の宗教と違う機能性が特徴的だ。宗教は現実を超える世界観を提供できる。そしてそれを共有する仲間を持つことで、辛い日常を生きる活力を与えられ、孤独から脱却できる可能性があるのだ。
筆者の新居には、早々にエホバの証人のチラシが投函されていた。エホバの証人は原理的な聖書解釈により一般社会との齟齬が大きく様々な問題を抱えている団体だが、地域コミュニティの弱体化した現状においては有効な機能を有していると思われる。
このエホバの証人以上の組織力を有しているのが創価学会である。創価学会は都道府県レベルから、極めて狭い町内会レベルにまでコミュニティが構築されている。定期的な集会が開催され、独居老人に対する見守り機能としても期待できる。
信者ファーストの新宗教は墓地や霊園、納骨堂まで所有している
また、死後の住居・墓の問題についても宗教コミュニティは一定の用意がある。団体の規模にもよるが、創価学会、立正校正会、幸福の科学、GLAといった有力な新宗教団体は独自の墓園・霊園・納骨堂を有している。
葬儀と深い関わりを持つ伝統仏教に立脚する団体はこの傾向が強く、キリスト教系新宗教団体は墓を軽視している傾向が強い(その場合は遺族がそれぞれな方法で埋葬することになる)。また、幸福の科学やGLAなど独自の教義を立てている団体は歴史が浅い分、信者ファーストを強調しているところがあり霊園が完備されている場合が多い(新宗教の墓地事情についてはいずれ改めて論じたい)。
上京世代以降の世帯は檀家制度からもはみ出している存在であり、この辺りも新宗教コミュニティには、死んだ後の面倒をみてもらえる安心をもらえる要素があるといえる。
孤独死の恐怖
山折哲雄「『ひとり』の哲学」がベストセラーになった。山折は親鸞、道元、西行らを例に挙げ孤独とはみじめなものではないと、「個の自立」を説く。しかし高名な学者であり、生活に余裕のある山折が本当の意味での孤独なのかは疑問が残る。その気ならいくらでも社会とのつながりを取り戻せる著名人に孤独を薦められても高所高台からの説教にしか聞こえない。
筆者は高僧や芸術家が庵を結んで世間との交わりを断った逸話を聞く度に「めしはどうやって食ってたのだろう」と疑問に思ったものだ。少なくとも年貢に追われ毎日田畑を耕す庶民にできる芸当ではない。そんな庶民は孤独が怖いのだ。孤独死のニュースを見る度に暗い気持ちになり、自分もそうなるのではないかと落ち込む。それが普通である。自立している高名な立派な方たちとは違う。
創価学会に批判的なブログにも、創価コミュニティによって孤独死を免れた例が挙げられ、コミュニティの有効性を認めざるを得ないとの記事が掲載されていた(注)。孤独は怖い、それが多くの人たちにとっての現実である。
今そこにある危機
新宗教と社会との折り合いは決して良好とはいえず、オウム事件をはじめ、様々な事件も発生している。また新宗教も高齢化が進み、二世三世の幽霊会員化が問題になっている。手放しで新宗教コミュニティを称賛するわけにいかない。
対する伝統宗教はというと、2017年の富岡八幡宮殺人事件や、僧侶・神職の不祥事などは絶えず、事件性については新宗教だけが批判される筋でもなく、高齢化問題も同じである。
それなら地域と密着する新宗教コミュニティの方に可能性はある。先日寺院で、死の話を聞くのはお寺だけという法話を聞いた。しかしお寺にはこちらが足を運ばなくてはならない。お寺がこちらに呼びかけることはほとんどない。死の話を聞きに足を運べるバイタリティがない、まさにいま孤独死に直面している人はどうすればよいのか。伝統宗教もその役割を担うべく考える時期に来ている。危機は今、そこまで来ているのだ。
注:さらば!創価学会に関するものたち(アメーバブログ)