天使は存在するか?これは馬鹿げた問いだろうか。天使について哲学的に思考しようというアプローチがある。哲学的な天使論は神話やスピリチュアル的な天使の話に比べると小難しく退屈かもしれない。しかし知的好奇心を刺激される人もいるに違いない。
神話、メルヘンの天使
現代における天使とは神話と幻想の世界の住人である。宗教画には大天使ガブリエルが聖母マリアにイエス・キリストが宿ったことを告げる「受胎告知」のモチーフが多く描かれている。有名なアニメ・フランダースの犬の最終回は、ネロとパトラッシュを天使たちが迎えに来て天国へ連れて行くシーンで終わる。この天使たちは子供に羽が生えたキューピットのような姿をしていた。SFやファンタジーには堕天使ルシフェル、天軍最強の大天使ミカエルなどがよく登場する。またガブリエルは新約聖書の「ヨハネの黙示録」では「最後の審判」を告げるラッパを鳴らすともされている。慈しみの天使、愛くるしい天使、滅びや裁きを司る威厳のある天使。物語には様々な天使が舞っている。
神の存在を認める科学者はいるが、天使はというと
天使なる存在は現実に存在するかと問えば普通は笑い飛ばされるだろう。科学者でも神の存在を認める者はいる。しかし天使となると、もはやメルヘンかスピリチュアルの世界である。そのスピリチュアルな世界では天使は高次元の存在であり、人間を見守ってくれているとされている。天使とはその名の通り天界からの使者であり、神と人間の間を取り持つ存在である。神はあまりに偉大で近づきがたく、天使はより近く親しい存在なのだ。スピリチュアル的な解釈では天使は常にわれわれにメッセージを送ってくれるといい、エンジェルナンバーなどはよく知られている。時計やナンバープレートなどでよく見かける数字、理由もないのに妙に気になる数字などがあれば、それは天使からのメッセージだという(注)。その真否はともかく、人間に幸運をもたらし守ってくれる天使は多くの人たちから愛されている。
注:エンジェルナンバーを広めたチャネラーのドリーン・バーチューは、現在キリスト教に改宗し自身のスピリチュアル的な言動はすべて否定している。
哲学的天使論とは
天使について哲学者、教育学者のモーティマー・ジェローム・アドラー(1902〜2001)、哲学者、カトリック神学者の稲垣良典らは、トマス・アクィナス(1225〜74 )の神学をベースに天使を哲学的に思考する「天使論」を提唱している。天使について思考することで人間とは何かを思考できるという。人間を身体と精神を兼ねた存在とした場合、動物は身体だけの存在となる。動物擁護の向きから反感を買いそうなので付け加えると、ここでいう精神とは感覚・感情に加えて、理性、知性の類を兼ね備えるものを指す。この定義を進めると天使とは「身体なき精神のみの存在」となり、人間は動物(植物、鉱物)と、神的存在(神、天使)の中間的な存在という「存在位階論」が成立する。「かれは天使でもなく、動物でもなく、人間である」(パスカル「パンセ」)
そして動物から人間への進化があるなら、人間から神への道もあってよい。しかし人間と全能である神の差は人間と動物以上のものがあるだろう。そこで人間以上、神以下の存在が必要となり天使が想定される。
哲学的天使論への違和感もあるが
このヒエラルキーに違和感を感じるのは人間の動物に対する優位だろう。生きとし生けるものはすべて平等ではないのか。人間を動物より上位に置くのは傲慢ではないのか。しかしこうあるべきという理想と、人間存在の特殊性という事実は別である。人間は動物とは明らかに異なる。動物は食う、寝る、増やすの円環の中で生きている。その目的は命をつなぐことである。人間だけがただ命をつなぐだけでは終わらない。この円環を超えている。そして動物にはない理性、知性を持って人間自身を超えた永遠なるものを思考することができる。
さらに死に対する態度である。人間は死に際して恐怖であったり、死を通じて生の意味を自覚したりもする。人間にとって死は単なる生命活動の終結ではない。稲垣は人間が特別な存在だとの「思い上がり」は許されないという言い分は理解できるとした上で、「人間のどこが特別なのかを自覚させてくれない学問は自己抹殺的な学問というべき」(天使論序説)と指摘する。
人間を動物とは違う特別な存在だとする考えを思い上がりというなら、人間の上位存在を想定しないのも思い上がりではないのか。人間は神ではない。神ではないのだから人間が知ることができない世界、存在は無いとは言えない。このように天使について思考することは人間の存在を思考する哲学的な営みとしての意義がある。
目に見えないものの存在
では実際に天使=身体なき精神なるものは存在するのか。存在するとして我々はどう認識するのか。まず存在イコール可視との常識は一面的であることを認識しておきたい。存在とは目に見えるものだけではない。
プラトン(BC427~347)のイデア論を考えるとわかりやすい。1個のリンゴは目に見えるが「1」そのものを見ることはできない。しかし我々は「1」「2」そのものを知っている。1個のリンゴも1冊の本も同じ「1」であることを知っている。この「数」という観念的な存在はただの妄想でなく、宇宙の仕組みを構成し、数学は宇宙の仕組みを明らかにする。プラトンは目に見えない観念的、本質的な存在をイデアと呼んだ。この論に従えば目に見えるものより、目に見えないものの方が本質的だといえる。天使は人間より神に近い存在なので、より宇宙の本質に近い。天使を観念的存在であると仮定すれば荒唐無稽とはいえなくなるのではないだろうか。目に見えないものの存在が軽んじられている現代において天使論は無駄な学問ではない。
向かうその先
先程の存在位階論に戻ると、人間は動物から神的存在へ向かう途上の存在である。繰り返すが人間は神ではない以上、人間の知らない領域は否定できない。その探究の案内人として天使の存在が要請される。人間はどこへ行くのか。その先の答えを天使は知っているかもしれない。秋の夜長に天使に思いを馳せてみてはどうだろう。
参考資料
■稲垣良典「信仰と理性」第三文明社(1979)
■稲垣良典「天使論序説」講談社(1996)
■M・J・アドラー著/稲垣良典訳 「天使とわれら」講談社(1997)
■渡部昇一、稲垣良典、高橋巖…他「知性としての精神―プラトンの現代的意義を探る」PHP研究所(2000)