国立極地研究所・統計数理研究所が2021年9月8日、過去3000年のオーロラ帯の変化を連続的に再現することに成功した。その結果、オーロラ帯は1200年頃、日本に再接近していたことが判明し、それは鎌倉前期の歌人・藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか、1162〜1241)の日記『明月記』(1180〜1235)の、建仁4(1204)年2月21に記された「赤気(せっき、赤い光、すなわちオーロラ)」の記述を裏づけるものだった。
歌人として有名な藤原定家だが
「学校の古典の授業」「文学・歴史系のトピック」以外で、その偉業にスポットが当てられることになった藤原定家だが、『小倉百人一首』(13世紀前半)の撰者で、「こぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」で知られる、公家で歌人の藤原俊成(としなり/しゅんぜい、1114〜1204)を父に持つ著名な歌人かつ、歌学者・古典学者でもあった。その定家には、同じく『百人一首』の「玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることのよわりもぞする」の女流歌人として知られる、式子内親王(しきし/しょくしないしんのう、1149頃〜1201)にまつわる伝説がある。
それは謡曲『定家』に描き出されているものだが、舞台は京都市上京区今出川通(いまでがわどおり)の、現在は天台宗に属する寺、「般舟三昧(はんじゅざんまい)院」内の「式子内親王の墓」とされる五輪塔である。
源氏大綱に記されている藤原定家と式子内親王の関係性とは
京の都を訪れた北国からの旅の僧2人が、晩秋のにわか雨に難儀し、雨宿りをした東屋に、ひとりの若い女が現れる。ここは実は、藤原定家が雨の風情を眺めるために建てた、「時雨亭(しぐれのちん)」だという。そして女は、僧を式子内親王の墓に案内する。墓にはびっしりと葛(かずら)が覆っている。女が言うには、この葛は「定家葛」という名前だ。かつて定家と内親王は、人目を忍ぶ恋仲だった。それは成就することなく、内親王は病のために亡くなってしまった。それゆえ、定家の執心が葛となり、墓にまとわりついていると言う。そして自分は実はその内親王で、絡みついた葛が苦しくてたまらない。何とか助けてほしいと、僧たちに助けを求め、姿を消した。そこで僧は「定家葛」が絡みついた石塔に向かって、法華経を読み始めた。夜もふけ、読経の功徳から、葛の蔓(つる)がだんだんと緩み始めた。そしてとうとう、長年定家に縛りつけられていた内親王の魂は自由になった。そこで内親王の霊は、僧に感謝を表したいと、生前好評を博していた舞を舞い始めた。しかし内親王はもはや、若く美しい姿ではなく、年老いて、醜くなってしまっていた。それを恥じた内親王は扇で顔を隠しながら、自分の居場所はこの墓の中にしかない。今再び、この姿で人前に出るよりは、もとのように、誰にも目立たないこの場所で、定家の恋情に絡みつかれたまま、苦しみながら生き続けるほうがいい、と言い、元に戻ることを決めた。すると、ほどけていた葛の蔓が再び内親王の霊に絡みつき、更に墓を覆い尽くしていった…。
この謡曲のもとになった、定家の内親王への思いが葛となって、内親王の墓に取りまいたという話は、永享4(1432)年以降に成立したとされる、『源氏大綱』に記されている。
藤原定家と式子内親王の関係をどう解釈するべきか
しかし国文学者・能学者の伊藤正義(まさよし、1930〜2009)は、実際の定家と内親王の恋愛譚を取り扱ったものというよりは、「定家葛」が象徴する「邪淫の妄執」という主題の下に、話が再構成されたものではないか、と評している。
そもそも定家葛だが、キョウチクトウ科の常緑のつる性植物で、本州・四国・九州の山野に多い。初夏になるとジャスミンに似た甘い香りを放つ、白色で、後に黄色に変わる小さな花を咲かせるものだ。この植物が何故、藤原定家と式子内親王に結びついたのかは不明だが、繁茂力や絡みつく蔓の強靭さゆえに、当時の人々には、果たせなかった烈しい恋情や囚われを想起させるものだったのだろう。
藤原定家の烈しい恋情を一方的にネガティブと決めつけることはできない
そして藤原定家の式子内親王への「妄執」、すなわち「迷いによる執着」、「まわりが見えなくなるほどの強いこだわり」、「成仏を妨げる虚妄の執念」…を表す「執着」という言葉だが、もともとは仏教用語で「執著」と記され、古代インドの寓話を集めた『百喩(ひゃくゆ)経』(5世紀成立)が漢訳された際に初めて用いられたものだ。意味としては、「ある物事に深く思いをかけて、とらわれること。執心して思いきれないこと」で、「執着」の「執」が「意地を張る」「しつこく取りつく」の意を表し、「著」は「とても難しい」状況を指す。後に「著」から「着」に変わったのは、「執」の意味のうちの「つく」が、「着」に移行してしまったためなのか、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう、602〜664)漢訳の『大般若波羅蜜多経巻』の中で用いられたのが初出だという。この「執着」という言葉は、日本には5世紀頃の仏教伝来とともに入ってきたと思しいが、初登場は説話集の『今昔物語集』(1120年頃)だ。今日の日本語においても「執着」は、仏教における「悟り」を妨げる考えや行動ばかりでなく、「しつこい」「執念深い」「とらわれている」などの否定的な意味を有しているが、現代の中国語においては、中国における1920年代の「新文化運動」の中で「執著」が「執着」の表記で統一されたこと。そしてその運動そのものが、科学と民主主義を旗印とし、革命を妨げる儒教的・封建的な文化や制度を批判する立場であったことから、「執着」が持つ仏教的な「負のイメージ」を廃し、「粘り強く努力する」などの、ポジティヴな意味が付与された。そしてそれが今日の中国語にも引き継がれているという。もしも日本語における「執着」も、中国におけるように国家的な意味や用法の変更措置がなされていたとしたら、定家葛が具現化している「妄執」も、「一途」「一生懸命」などの、好意的な意味に変わってしまっていたのだろうか。
伝説が誕生するための条件
民俗学者の小松和夫は『「伝説」はなぜ生まれたか』(2013年)の中で、「伝説は植物のように、特定の地域で、特定の場所や事物や人物にからめて語られている。したがって、その話をそのまま別の地域に容易には移植できない」と論じているが、まさに「藤原定家」、「式子内親王」が生きて死んだ京の都、しかも定家の「時雨亭」があったとされる「場所」、更に式子内親王の墓と伝えられる古い五輪塔が、16世紀の般舟三昧院の建立以前から存在していたからこそ、北海道を除く日本全土に自生する常緑のつる性植物である「定家葛」と結びついて語り伝えられ、謡曲『定家』が成立したのだろう。
最後に…
しかし時を経て、今回の国立極地研究所・統計数理研究所が行った、「近年の観測データを用いて統計的に検証し、その手法を地磁気モデルに応用する方法で、過去3000年のオーロラ帯の変化を連続的に再現する」ような、科学的かつ学際的な試みがなされたとしたら、先に述べた「藤原定家」「式子内親王」「定家葛」の伝説に新たな事実が判明する可能性もある。しかし、そこで「事実」「真実」が明るみになるよりも、伝説は伝説のまま、そっとしておいたほうがいいのかもしれないが…
参考資料
■松村明・今泉忠義・守随憲治(編)『旺文社 古語辞典』1960/1969/1975/1981/1982年 旺文社
■久保田淳「式子内親王」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第6巻 1985/1997年(698−699頁)吉川弘文館
■加藤友康「藤原定家」国史大辞典編集委員会(編)『国史大辞典』第12巻 1991/1998年(698−699頁)吉川弘文館
■牧野富太郎(原著)大橋広好・邑田仁・岩槻邦男(編)『新牧野日本植物圖鑑』2008年 北隆社
■福原隆善「般舟三昧院」今泉淑夫(編)『日本仏教史辞典』1999年(858−859頁)吉川弘文館
■小松和夫『「伝説」はなぜ生まれたか』2013年 角川学芸出版
■伊藤正義(校注)『新装版 新潮日本古典集成 謡曲集中』2015年 新潮社
■「『明月記』と『宋史』の記述から、平安・鎌倉時代における連発巨大磁気嵐の発生パターンを解明」『国立極地研究所』2017年3月21日
■胡新祥「仏教由来漢語「執着」についての考察」立教大学日本語研究会(編)『立教大学日本語研究』第26号 2020年(23−36頁)立教大学日本語研究会
■「オーロラ帯の過去3000年間の変化を再現」『国立極地研究所』2021年9月8日
■「オーロラ、鎌倉時代に最接近 藤原定家の「赤気」裏付け 地磁気データ基に再現」『JIJI.COM』2021年10月4日
■「定家」『鐵仙会 〜能と狂言〜』
■「上京区の史蹟百選/般舟院」『京都市上京区』
■「みどり花コラム 恋する植物:テイカカズラ」『公園文化WEB』