密教は他の仏教とは色合いが異なる。炎の燃えさかる祭壇を前に、怪しげな印を結び、奇怪な呪文(真言)を唱え、願望成就を祈祷する。その教えも、禁欲や無我を説くような他の宗派には無いものがある。生命を賛美し、欲望、特に性欲を肯定する哲学である。
真言宗の経典「理趣経」は性欲を肯定する
真言宗の根本経典は「金剛頂経」と「大日経」である。真言密教の教理が説かれている重要な経典だが、勤行、葬儀、法事、仏事などで読経をされることはほとんどない。こうした場面において真言宗で最も読まれ、檀信徒に親しまれている経典は「理趣経(りしゅきょう)」(大楽金剛不空真実三摩耶経)である。しかし檀信徒にはお経の意味などわからないのが普通だろう。寺側も積極的にこの経典の意味を伝えようとはしない。理趣経は欲望、中でも性欲を肯定する教えを説いたものだからである。
「理趣経」では性欲を賛美する「十七清浄句」が記されている
理趣経のテーマは“煩悩即菩提”という。菩提とは菩提心、覚りを欲する心。あらゆる煩悩、つまり欲望は本来清浄なものであり、この菩提心の現れであると説く。数ある欲望の中でも性欲は特に重視され、第1章にあたる初段では男女の合一による覚りへの道が示されている。冒頭でいきなり「妙適清浄の句、是れ菩薩位なり」と説かれる。妙適とはオルガスムス、エクスタシーのことである。性欲の快楽はそのまま菩薩の境地であるとの意味である。さらに「欲箭清浄句、是れ菩薩位なり」「触清浄句、是菩薩位なり」と続く。欲箭は欲望の矢、快楽を得ようとする欲望。触は男女が抱き合う行為を指す。以降17にのぼり性欲を賛美する教えが展開される。これを「十七清浄句」という。
欲望を肯定せずに人間社会は成り立たない
仏教に限らず宗教は基本的に禁欲を説く。世俗の誘惑を断ち切り神(仏)の世界を目指すものである。しかし密教は欲望を肯定した。宗教が禁欲を説くのは当然だと考えがちだが、性欲が無ければ人間は子孫を残せず滅んでしまう。性欲に代表される欲望はそれ自体は動物としての基本である。欲望は生命活動そのものだろう。欲望があるから文化・文明が発達した。無我の境地というが、何の雑念も無い木石になってそれが人間といえるだろうか。欲望あってこその人間であり、欲望を否定するのは人間であることを放棄することである。密教はそこから逃げない。逃げずに肯定する。欲望・煩悩が持つ迸るエネルギーを仏教本来の「覚り」を得るために利用する。
密教は性欲をどのように肯定しているか
欲望それ自体は生きるために備わった本能であり、密教はよれば本来純粋、清浄なものである。しかしその欲望も我々は自分だけが満足するだけで終わってしまう。本来清浄であるはずの欲望をただの醜い煩悩にしてしまうのである。小さい自己満足の喜び、例えば男女の交わり。これを「小楽」という。密教はそこに留まらず、その欲望をとてつもなく大きくしろ、自分だけの快楽「小楽」から全人類、全宇宙的規模の快楽「大楽」へ昇華せよと説く。全宇宙とは密教では絶対的真理の象徴「大日如来」を指す。つまり男女の合一から宇宙との合一を目指すのである。多くの宗教は禁欲を説き「小楽」を捨てさせる。だが密教は肯定し「大楽」への踏み台にする。「小楽」と「大楽」はレベルが異なるだけで本来も同じものである。「小楽」を否定しては「大楽」への道は閉ざされてしまう。覚りのために欲望肯定の哲学を説くのが理趣経である。宗教、仏教というものに禁欲的なイメージを持つ一般人から見ればかなり破天荒な経典といえるが、理趣経は密教を象徴するような内容であり、最も多く読誦されるのは当然といえるかもしれない。
危険視された経典 理趣経
性欲は人間の欲望の中でも特に激しいものである。古来より性のエネルギーを超常的な能力に転化しようとした人たちがいた。中国には房中術の伝統があり、古代インドの性愛論書「カーマ・スートラ」は様々な性行為について具体的に論じている。また同じ密教でもチベット密教の寺院には男女が合一する様を描いた歓喜図、歓喜像が存在し、仏画、仏像は色彩も激しい描写のものが多い。対して日本の密教はその他の宗派に比べて華美な装飾は目立つものの、チベット比べればシンプルで静謐な印象を受ける。密教は前・中・後期に分類され、空海(774〜835 )が継承した頃は中期の時代だった。チベット密教はその後に展開された後期密教の流れを汲んでいる。中期密教で理趣経が説いた欲望肯定の哲学は、後期に入ってより直接的になっていった。日本人は元々性に対してオープンになるのは苦手である。現代に至ってかなり変化はしたものの欧米などの大胆さには及ばない。日本の密教が欲望肯定の思想を、観念的な段階で留まっていた中期のうちに伝来したのは幸いだったかもしれない。
このような理趣経であるから極めて慎重に扱われた。字義通りに解釈すれば単なるセックス教団を生み出すことになりかねない。いわゆる真言立川流は理趣経の表現をそのまま実践した「淫祠邪教」集団として知られている(注)。また空海と最澄(767〜822)の関係がこじれたきっかけは理趣経の注釈書「理趣釈経」をめぐってのことだった。最澄は理趣釈経の貸出を求めるも空海はこれを拒否した。空海にすれば理趣経は直接教えを受けなければどのような解釈をされるかわからない劇薬である。もちろん最澄はそのような人物ではない。しかし理趣経の教えはこれまでの仏教とはあまりに違いすぎたのであった。
注:立川流に関しては近年有力な資料批判が行われており定説が覆されつつある。彌永信美「立川流と心定『受法用心集』をめぐって」、『日本仏教綜合研究』第2号 日本仏教綜合研究学会(2004)などを参照
本能を超え、宇宙とひとつになる
文明が性の問題をタブー視してきたのは、理性と反する動物的な本能に対する嫌悪感から来ているのかもしれない。理趣経は欲望を避けるどろこか、欲望を単なる本能から宇宙的規模にまで膨らませようとする。このような経典を葬儀、つまり死者を前に読経するのも大胆な話ではないか。理趣経は読経するだけで大変な功徳があるという。それはその場にいる生者はもちろん、魂となった死者にも宇宙と一体になる「大楽」への道を示してくれる力を持っているということではないだろうか。
参考資料
■正木晃「現代語訳 理趣経」角川ソフィア文庫(2019)