コロナ禍において、生活に直結しない芸能芸術などの文化は不要不急なものだとして厳しい状況に置かれている。学問・学術の分野なら人文系や純粋数学などが該当するだろうか。その中でも哲学と呼ばれる学問は「人は何故生まれたのか」「何のために生きるのか」「何故死ななければならないのか」などという不要不急の極みのような問いを、古代ギリシャから2500年間考え続けてきた。そんな哲学を専門に学ぶための学校が、現代以上に実学が必要だった明治の世に誕生した。
不要不急の「諸学の王」
富国強兵、文明開化の明治時代にあって、日本における大学とは実学を学ぶ場であるべきだった。日本が技術に重きを置いた「工学部」を大学に設立した世界初の国であることは象徴的である。現代においても法学部と医学部が文・理における筆頭学部であり、文・理と言いつつ文学や理論物理学は世の中に資することのない「虚学」とされる。日本人がノーベル賞を受賞すると当然大きく報じられるが、直接社会の役に立つ化学、医学・生理学賞などに比べ、物理学賞となると決まって「それが何の役に立つのか」という声が挙がる。しかし人間とはそれだけだろうか。
「人は何故生まれたのか」「何のために生きるのか」「何故死ななければならないのか」このような哲学的な問いは、誰しも子供の頃に一度は考えたことがあるのではないだろうか。そして成長と共に忘れられてしまう。この類の問いには明確な答えなどなく、いくら考えても底がない。生活に何の役にも立たないこのような問いには、いつまでも陥らないように順応していくものである。それでも人として生きる限り避けては通れない問題でもある。考えることやめなかった一部の人たちは哲学者と呼ばれ、論理を駆使して哲学を学問として確立させた。哲学は学問において虚学ではあっても、異端や亜流ではない。学問の目的が万物の真理を追究するというのなら、生と死、存在の真理そのものに直接向き合う哲学はその基礎であり最上の学問ということになる。欧州において「諸学の王」とされ伝統的な大学に必ず哲学部が設置されているのは真理の追究故である。現代思想は絶対的真理の否定に走ったが、真理そのものを問題にしていることに変わりはない。
井上円了「哲学館」を建てる
「妖怪博士」として知られる井上円了(1858〜1919)は1887年(明治20)若干29歳で医学でも物理でもなく政治経済でもない、哲学を中心に学問を学ぶための私学校「哲学館」を創立した。後の東洋大学である。哲学館とは大胆な名称である。哲学を専門に学ぶための私学とは何なのか。欧州では「諸学の王」であり、「大学」の概念が欧州由来のものである以上、欧米の模倣、吸収に躍起になっていた日本の帝国大学には哲学科がある。しかし欧米に追いつかんとがむしゃらになっていた明治日本にとって哲学などは大学としての箔付けであり、一部の浮世離れした学生が学んでいればよかった。そこまで言わなくとも、哲学という不要不急の学問をあえて学ぶ学校を民間に作る必要はなかったはずである。しかし円了は「哲学は中央政府、理学は地方政府」とまで言い、哲学こそ学問の基礎であり中心であると考えた。その哲学を帝大以外では学べないとはいかなるものか。大学、学問は庶民には手の届かない世界であった。帝大に入学できるのは一部のエリートである。円了は哲学館設立の主旨として「晩学ニシテ速成を求ムル者」「貧困ニシテ大学ニ入ルコト能ハザル者 」「洋語を解セザル者」に哲学諸科を教授する為であると述べている。高年齢、貧困、語学力不足、それでも知的好奇心に富み学ぶ意欲のある者。円了はこうした非エリートにも学問、それも自身が最も重要だと考える哲学への門戸を開放した。さらに翌年「哲学館講義録」という通信教育課程も設置している。家庭環境による学力格差が問題となっている現代において、円了の業績と熱意は注目されるべきである。
学問としての哲学
哲学の意義は認めるとして、哲学が「学問」でなくてならないのかという疑問が生まれる。カントの「純粋理性批判」やハイデガーの「存在と時間」といった著名な哲学書は難書として有名だ。精密な論理や難解な専門用語が並ぶ哲学書は然るべき知識と論理的な思考がなければ読みこなせない。確かに系統的な教育は必要である。一方で村上春樹やヘミングウェイの小説を読んで感銘を受けたり人生について考えるのに勉強は必要ない。哲学も難解な勉強ではなく、自分の言葉で考え、語るものではない。そのように主張する向きは「カントによると〜」とか「ニーチェが言うには〜」などと他の哲学者の言葉を借りるものではないと批判する。本質的には正論といえるが、こうした考えには一種の甘えもつきまとうと思われる。
音楽で例えると最近では歌手が自分で詞曲を作るタイプが大勢を占めている。自分の世界観を表現することは素晴らしいことである。だがその反面、どのような作品でも個人の世界観、死生観、人生観などで済ませられてしまう。かつて歌手は文字通り「歌い手」であり、作品は専門の作詞・作曲家が制作していた。歌手は作家の作品をいかに歌いこなすか、作家としのぎ合っていた。山口百恵の「秋桜」という楽曲がある。結婚を直前に控えた娘の母親に対する想いを綴ったもので、当時18歳の百恵にとっては難しい曲だった。百恵が作者のさだまさしに「実感がわかない、上手く歌えない」と話すと、さだは自分らしく歌えばいいと諭したという。「秋桜」は未熟な少女歌手が熟練のソングライターの世界に挑戦した結果名曲となったのである。
哲学的な問いは誰でもできる。多くの人が通過したように子供こそ哲学者であるともいえるが、大概はそれ以上展開できずに終わってしまうものだ。先哲たちの著書にはその先が示唆されている。永井均が「一人称の出来合いの哲学問題」と呼んだ自己満足の思索に陥らないためにも、先哲のテキストを読み込み、先哲としのぎ合う修練は必須である。自らの言葉で考え、語ることを是とした池田晶子(1960〜2007)も哲学科で学び、プラトンやヘーゲルを愛し、死去の寸前までヘーゲルの「大論理学」の口語版を執筆していた。円了は曖昧な人生論のような哲学を庶民にたれ流そうとしたわけではない。哲学を学問として正しく「学ぶ」ための場として哲学館を創立したのであった。
必要緊急の「諸学の王」
書店には「〇〇分でわかるカント」のような入門書が並ぶがやはり哲学は難しい。難しいが面白い。円了が哲学の門戸開放に力を注いだのは学者の使命と共にやはりその魅力故だろう。生と死、存在と無を考える哲学ほど生きる上で必要な学問はない。ましてコロナ禍の現在ではなおさらである。我々は現実に今こうして生きて存在し、いつ死ぬかわからない。不要不急どころか今、ここで、必要な学問であるといえる。ステイホームのご時世、簡単な入門書の次は本物の哲学書の「勉強」に挑戦されたい。
参考資料
■東洋大学創立百年史編纂委員会/東洋大学井上円了記念学術センター 編「東洋大学百年史 通史編1」東洋大学(1993)
■永井均「私・今・そして神」講談社(2004)