東京・品川区二葉(ふたば)に、蛇窪(へびくぼ)神社(上神明天祖(かみしんめいてんそ)神社)がある。この神社の縁起として、以下の話が伝わっている。
蛇窪神社の縁起
文永8(1272)年、鎌倉時代前期の武将・北条重時(1198〜1261)が関東下向に際し、息子の時千代(生没年不詳)に家臣を与え、現在の二葉近辺に残した。後に時千代は残して出家し、法圓(ほうえん)と名乗り、現在の大田区大森東にある厳正寺(ごんしょうじ)を開山した。それから50年ほど経った元亨2(1322)年、武蔵国一帯を大旱魃が襲った。法圓の甥の第2世・法密がこの危機を救うため、寺の戌亥(いぬい、北西)の方角に当たる森林内の、古池のほとりに祀られた「龍神社」に雨乞いの絶食祈願を行った。するとたちどころに大雨となり、危機を免れることができた。このことに感激した、かつての時千代の家臣たちは、自らが住む二葉付近に神社を勧請した、というものだ。
品川区二葉近辺は蛇が多くいたことから蛇窪と呼ばれていた
もともとこの辺りは、室町時代の天文年間(1532〜1555)以前から、上・下2村に別れ、「蛇窪」と呼ばれていた。江戸後期の地誌『新編武蔵国風土記稿』(1830年)によると、この辺りは湿地だったので、蛇が多く住んでいたのでこの名になったという。
多く棲む蛇のおかげで、地域の人々がお産に苦しんだことがないという話も伝わっている。または、そもそも「蛇」とは全く関係がなく、源平合戦(1180〜1185)の頃に兵を備えたところで、しかも窪地だったので、「兵備の窪地」がつまって「へびくぼ」になり、漢字も「蛇窪」になったという説。または、土に砂利が多く混じっていた窪地だったことから、「砂利窪」が縮まり、「じゃくぼ」となったとするものもある。明治4(1871)年に東京府荏原郡上/下蛇窪村となっていたが、昭和7(1932)年に東京市に編入されて、荏原上/下蛇窪となった。しかし、「蛇」の文字が忌まれ、近在の「上神明天祖神社」「下神明天祖神社」ちなんで、上/下神明町となったものの、昭和16(1941)年に、「上」が二葉町(1964(昭和39)年に二葉)、「下」が豊町(ゆたかちょう)となり、今日に至っている。
蛇は忌まれる存在か
ところで、地名に「蛇」がついていると「忌まれる」というのは、どういうことなのだろうか。蛇は寒さに弱く、地下で冬眠しているが、夏場になると活動し始め、草むらの影から突然現れること。地面を音もなく怪しくうごめき、成長に応じて脱皮すること。人や動物が噛まれると死に至る「毒蛇」の存在…などが、その要因だろうか。更にこうした蛇の生態から、「執念深い」「祟りがある」などと新たな「イメージ」が付け加えられていくのだろう。だが、「蛇」にまつわる「イメージ」は、悪いことばかりではない。大地そのもの、または、穀物を実らせる大地の恵み、火山活動、果ては森林や池、雨水や雷電の化身とも捉えられてきた。
蛇が禍を封じるとも言われている
例えば縄文時代中期(5500〜4400年前)という、長野県諏訪郡富士見町(ふじみまち)にある藤内(とうない)遺跡から、左巻きにとぐろを巻き、口を大きく開いて、頭を持ち上げている蛇を後頭部に戴いた、高さ12cm、厚さ2.5cmほどの、女性を象った土偶が一体、発見されている。作物の実り、そして子宝を司る地母神、または神と会話ができる巫女、そしてそこから発展した、禍事を封じる…などの「いい意味」にせよ、「呪い」…などの悪い意味にせよ、当時、藤内遺跡近辺に居住していた縄文人が「蛇」、または「蛇を後頭部につけた女性」を霊的で特別なものだと捉えていたからこそ、わざわざこの土偶を制作したのだろう。現代人の我々には、この土偶はどのように映るのだろうか。「蛇、怖い!」と、目を背けたくなるのか。それとも、我々の生活や心から失われてしまった、自然そのものや自然を超えたものと共にあり、交感していた縄文人の素朴な心を見出すのか。
どちらかというと忌まれる存在の蛇
とはいえ、「蛇」が「忌まれる」状況は、現代においても続いている。よくある「怪談話」だが、必ずしも、古く伝わる慣習やしきたりが日常生活に今なお色濃く残る「歴史ある町」に限らず、東京などの新興の大都市において、家の増改築や土地の再開発など、土地を掘り返すような工事を行っている施工業者の夢枕に「蛇の精」が現れ、直ちに取りやめるように訴えた。しかしそれを無視していたところ、大きな石の下から1匹の大蛇が現れた。それでも止めなかったため、「蛇の祟り」で業者や地主などが、次々と不慮の事故や病で倒れた。それを怖れた人々が作業を一旦中止し、蛇をお祀りする儀式を執り行うと、災いはなくなった…というものだ。だが「祟り」とは真逆に、同じように家の増改築中に蛇が地中から発見されたことから、家の主人が、安らかに暮らしていた蛇に侘び、大切にお祀りしたところ、その家に富貴がもたらされた…という話もまた、存在する。こうしたことは人の心の常で、「いいこと」よりも「悪いこと」の方が印象に強く残る。しかも、二度と繰り返すべきではない!という戒めの気持ちもつのってくることから、「忌まれる」ことの方が、後世に継承されてしまうのだろう。
最後に…
蛇が現実に、人間に災厄をもたらす生き物か否かはともかく、安住の地を人間のエゴで奪われた蛇に対して、心からの謝意を込めてお祀りしてきた過去の人々の謙虚な心、そして「神秘的な存在」に対して敬意を払う気持ちを、我々は今後も大切にしていきたいものである。
参考資料
■武藤雄六「蛇身装飾のついた土偶と土器 −信濃境藤内遺跡の一新例−」日本考古学会(編)『考古学雑誌』第49巻 第3号 1963年(64−68頁)日本考古学会
■東京都神社庁品川区支部(編)『品川区のお宮』1969年 東京都神社庁品川区支部
■品川区教育委員会(編)『品川の歴史シリーズ No.9 地名篇』1973年 品川区教育委員会
■斎藤文子「縄文時代における蛇の信仰(1)」考古学ジャーナル編集委員会(編)『月間考古学ジャーナル』1974年3月号(22−27頁)ニュー・サイエンス社
■斎藤文子「縄文時代における蛇の信仰(2)」考古学ジャーナル編集委員会(編)『月間考古学ジャーナル』1974年4月号(22−29頁)ニュー・サイエンス社
■上田正昭「古代芸能の形成」藝能史研究會(編)『日本芸能史 第1巻 原始・古代』1981/1996年(171−228頁)法政大学出版局
■弥谷まゆ美「蛇」『日本説話伝説大事典』志村有弘・諏訪春雄(編)2000年(847−848頁)勉誠出版
■品川区教育委員会(編)『しながわの歴史めぐり 増補改訂版』1988/1997/2005年 品川区教育委員会
■「信州の文化財:長野県藤内遺跡出土品」『公益財団法人 八十二文化財団』