仏教は宗教というより哲学に近いとよく言われる。それは霊魂や唯一神の存在を否定し、無我を説き、縁起の思想などを説くところにあると思われる。ところが統一的な見解は全く無く、各宗派により様々なのが現状である。しかし最も乖離しているのは仏教側と民衆の間であった。
各宗派の見解
僧侶(浄土宗)兼ジャーナリストの鵜飼秀徳氏が、各包括宗教法人に対し、霊魂の存在の認否に関して「質問状」を送り回答を求めた記事がある。調査は、2016(平成28)年から2017(平成29)年にかけて実施。対象は高野山真言宗、天台宗、日蓮宗、浄土宗、真宗大谷派、臨済宗妙心寺派、曹洞宗の伝統仏教7宗派である。原文は記事元を参照して頂くとして、これをベースとして各宗派の見解を要約、補足、検討をする。
高野山真言宗
密教系の【高野山真言宗】は、霊魂の存在を認める立場を明言した。人間は大日如来から命を与えられてこの世に生まれ、肉体滅後は再び大日如来の内に帰還するとしている。密教の死生観は「大日如来」に帰趨する。大日如来は宇宙的大生命というべき存在で、我々も含めた全存在は大日如来の現れであり故郷である。従って今生の縁が尽きれば大日如来に帰る。大いなる存在に溶け込むイメージは現代のスピリチュアル的な死生観と親和性が高い。
天台宗
密教が核の一つとなっている総合仏教【天台宗】は、日本仏教は日本人の霊魂観の上に成立継承することで定着したのであり、霊魂の存在を信じることなしでは成り立たないとしている。また「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」と話しており、宗教の役割に立脚している。
日蓮宗
法華経を至上の経典とする【日蓮宗】は、霊魂の存在を認めていると断言。宗祖・日蓮(1222〜82)が息子に先立たれた女性の信徒に、息子と既に故人の夫と浄土で会えるよう「南無妙法蓮華経」の題目を唱える唱題を勧めた例を引用している。日蓮宗も密教系と同じく加持祈祷を行っている。この世ならざる力を用いる事を掲げている以上、霊魂の存在を否定するわけにはいかないだろう。
臨済宗妙心寺派
禅系の【臨済宗妙心寺派】は、釈迦が戒めた「断見」(霊魂否定)と「常見」(霊魂肯定)のいずれにも与しない立場を明らかにした。霊魂の存在を積極的に認めない代わり、人は死んだら終わり」と考えているわけでもないとしている。
曹洞宗
同じ禅系の【曹洞宗】も、積極的に「霊魂」の存在を積極的に認める発言はしない。禅系はどちらも曖昧な回答に感じるが、生と死、存在と無を超越するところに禅の妙味がある。そうした哲学的な表現が現代でも支持されるのだろう。一方で曹洞宗は民衆の要望に応える形で葬送儀礼を行ってきたことを明言している。
浄土宗 真宗大谷派
浄土系は複雑である。【浄土宗】は、「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えて極楽浄土に生まれることを願う教えである。仏教の看板の一つ「無我説」と矛盾するため積極的に「霊魂」に触れることはないが、実際の葬儀などの場においては曹洞宗と同じく容認する姿勢である。
浄土宗から分かれた浄土真宗の一派【真宗大谷派】も、やはり霊魂の存在を否定しており霊魂や死後の存在の有無に対する執着から離れることを説いている。では何が極楽浄土に往生するのか。これはかなり抽象的で、「人は霊ではなく仏になる」「浄土は仏になるための修行の場」など、キリスト教の天国とは概念が異なる。さらに真宗でも大谷派(東)と本願寺派(西)では見解が異なっており、さらに同じ大谷派でも論争が絶えない現状である。
拡散する宗教観
まとめると、密教・法華系は霊魂の存在を認め、浄土系は認めない。禅系はどちらでもないことになる。しかし僧侶の個々の知見も異なっており、霊魂観の統一見解は無いとみてよい。また仏教といえば無我論であるが、初期仏典とされる「スッタニパータ」「ダンマパダ」などには、釈尊が明らかに霊魂の存在や死後の世界を認めている発言をしているとの主張もある。事情はキリスト教も変わらない。プロテスタントはカトリックが説く「煉獄」を認めていないし、東方キリスト教は西方キリスト教の重要概念である「原罪」を否定している。またイスラム過激派の極端なクルアーン解釈はよく知られるところである。
ここまで来ると何が正しいのかわからなくなるが、神学者・宗教哲学者のジョン・ヒック(1922〜2012)は宗教多元主義(Religious Pluralism)を提唱した。ヒックはすべての宗教は根本的には同一であり、風土や文化によって枝分かれしたとする。この考え自体は宗教間対話の道を開いたといえるが、宗教多元主義そのものがいくつかの見解に分かれており、現代宗教は拡散の一途を辿っているといえる。
宗派と民衆の乖離
禅僧は生も死も無いと言い、真宗の僧(の一部)は霊魂は無い、日本古来の神祇も拝むなと説く。それでも民衆は禅寺で葬儀を行い、念仏を唱えながら神棚を祀っていた。宗派の本山がどうあれ民衆は死後の霊魂の存在を信じた。その願いと祈りは仏教も飲み込み、葬送儀礼の形となり現代に至っている。そうした「葬式仏教」を否定する立場から、仏教は死者のためではなく、生きている人間のためのものであると主張する哲学的、進歩的な人もいる。確かに哲学として捉えた仏教に魅力を感じる人もいるだろう。まさに哲学は生きている人間のものである。しかし我々はいずれ死者となる。
天台宗の「霊魂の存在を否定すれば仏教は単なる哲学や道徳律となって、宗教ではなくなってしまう」との見解は実にプラグマティック(実用的)な真理観である。宗教とはなんのためにあるのか。客観的な真理を探究するための学問なのか、迷える民衆を救うためにあるのか。「執着を捨てよ」「生死を超越せよ」という。素晴らしい教えである。是非そのような境地に達したいものだ。しかしそんなことできる者がどれほどいるか。自分は死後も存続していたいし、大切な人もあの世で元気に暮らしている。そしていつかまた会える。それがごく普通の人たちの願いではないだろうか。仏教側もその願いを無視することはできなかった。ちなみに筆者の実家は真宗大谷派だが、仏壇には本山が完全否定している位牌があり、法事の際には位牌に対して読経される。これが民衆の真実である。
多様化する日本仏教
自然科学が発展しても宗教の哲学化が進んでも、霊魂を滅ぼすことは難しい。民衆の側もしたたかに、古来からの信仰、習俗を捨てないまま仏教の良い所を吸収してきた。日本仏教にとって霊魂は悩ましい存在である。しかし各宗派はそれぞれ異なる魅力がある。霊魂観による教義の拡散は混乱を呼びつつも、豊かに多様化していったともいえるのである。
参考資料
■藤山みどり「現代の伝統仏教の『死後の世界』観」宗教情報センター(2014)
■藤山みどり「伝統仏教界の『死後の世界』に関する動向」宗教情報センター(2014)