JR/京浜急行品川駅の高輪口を出ると、国道15号、いわゆる第一京浜が広がっている。信号を渡り、かつて京浜ホテルが建っていた道を左に進むと、老舗洋食レストラン・つばめグリルの手前に、小さな神社がある。この高山稲荷神社は昭和6(1931)年の造営で、「高山」という名前通り、もともとは現在地よりも奥の台地側に所在したという。しかし第一京浜の拡張に伴い、道路沿いのこの場所に移されたという。高輪の地はいわゆるお屋敷町であったことから、造営の寄付者の名前には、毛利家・森村家・岩崎家などの名家が連なっている。
おしゃもじさまとは
高山稲荷神社の鳥居をくぐった左手に、「おしゃもじさま」という、ごはんをよそう、木または竹製の、或いはプラスチック製のしゃもじか、ゴムべらに似たものが浮き彫りになった、高さ55cm、幅26cmの小さな石碑を祀った祠がある。
これは一説には、キリシタンがつくった石灯籠で、1623(元和9)年に札の辻(ふだのつじ、現・港区三田3丁目付近)で処刑されたという外国人宣教師、または、1638(寛永15)年にも同地並びに高輪海岸沿いで行われた処刑によって亡くなった信徒らを供養するために建立されていたもの。または、現在の品川駅港南口側は、今日では埋め立てや開発が進み、跡形はすっかりなくなってしまっているが、昭和初期ぐらいまでは海水浴や潮干狩りが楽しめる場所で、初代・歌川広重(1797〜1858)『行烈高輪之図』(1840年前後)に描かれたような、大きな海岸線が広がっていた。それゆえ「おしゃもじさま」は、海から出土したとも言われている。
そして「おしゃもじさま」は、現在の高輪のどこだったのかは不明だが、天保年間(1831〜1845)に、斎藤月岑(1804〜1878)の『江戸名所図会』(天保年間(1804〜1878)成立)に記載された、縁結びに御利益があるとされ、多くの人々が詣でたという「石(しゃく)神社」と深い関連がある可能性も指摘されている。この石神社は、時期はわからないものの、高山稲荷神社に合祀されたという。
しゃもじはそもそも当時どんな扱いだったか
そもそも、あまりにも身近にあるがゆえに、「信仰」とは程遠く考えられる「しゃもじ」すなわち「杓子(しゃくし)」は、民の信仰対象となりうるものなのか。昔の日本では、例えば農村社会において五穀豊穣を祈るため、地域の山の神舞の採物(とりもの。神事や神楽の折に、巫女や舞い手が手に持つもの)にしたり、疫病を防ぐための呪具としても用いられることもあった。また、核家族化以前の、親子三代同居が主流であった家庭においては、食物を盛り分ける行為は、主婦の重要な仕事であった。そのため、「杓子」そのものが主婦権のシンボルだった。それゆえ、年老いた姑が嫁へ家事一切を「委譲」することを、「杓子渡し」「へら渡し」などと称したりもした。
隠れキリシタンはしゃもじをマリアやキリストに見立てた
高山稲荷神社の「おしゃもじさま」は上記の日本古来の伝統的な「杓子」観によって「おしゃもじさま」と名づけられたというよりも、隠れキリシタン信仰においては、西洋におけるようなイエス・キリストや聖母マリア、そして天使や聖人の像を象ることは、隠しておかねばならない信仰を明らかにすることになる。それゆえ信徒たちはその像を、日本古来の仏像や神像に模して、心のなかで父なる神、イエス・キリスト、聖霊に祈りを捧げていた。しかしそれが経年劣化などで摩耗してしまい、一見、「しゃもじ」に見えることから「おしゃもじさま」になっているのだろう。
江戸期におけるキリシタン禁教が与えた影響
そして「お稲荷様」を祀っている高山稲荷神社に限ったことではないのだが、江戸期に日本の宗教環境が大きく変貌したことも、「おしゃもじさま」が高山稲荷神社に祀られていることの大きな要因だと考えられる。
それは言うまでもなく、キリシタン禁教だ。この禁制によって、宣教師や信徒らの「処刑」ばかりではなく、17世紀前半の寛永年間(1624〜1645)までには、寺社奉行の設置、更には武家のみならず、一般庶民に至るまで、個々の家々が葬祭にかかわる檀那寺を持たねばならないという、寺請制度が定められた。特に寺請制度の全国的普及によって、民のみならず、寺社をも大きく変貌させたのである。それは、「信仰の制限」にとどまるばかりではなかった。殊に江戸の場合は、京都や奈良のような、長い歴史や伝統を有し、大きな権力や影響力を持つ寺社をも擁する「古都」ではなく、今日で言う「新興都市」であった。高輪を含む江戸周辺地域の大半は、田圃や空き地だったのだ。そこに、キリスト教を禁じているがゆえに、民の「宗教生活」を十分なものにするため、多くの寺社が創建または転入したものの、そうした新興の寺々は、地域の人々の葬送儀礼や墓所の管理だけでは、寺自体を存続維持していくことが難しかった。その「対策」として、享保年間(1716〜1736)ぐらいから、霊験あらたかなエピソードやご利益といった「縁起」を付加し、境内に新たに仏を祀り、「縁日」「御開帳」などの「特別な日」を定め、今日で言う「パワースポット」「聖地巡り」などのように、寺に多くの参詣者を集めるようにしたという。そしてその「ブーム」のピークは、宝暦年間(1751〜1764)ぐらいから、天明年間(1781〜1789)だった。
寺社の存続を掛けた生き残り戦略
また、それに連動する形で、寺同様、新興の神社も、同様のことを行うようになる。当時は神仏習合であったこともあり、境内仏をお迎えするのみならず、神社内に「摂社末社」という、低い位置づけの境内社を祀った。更には「人」さえもが、「神様」として祀られた。つまり、生前様々な悩みや苦しみを持っていたある人が、死ぬ前に自分を神として祀れば、必ず、多くの人の苦しみが救われるだろうと遺言を残す。その人を、神社内の小さな祠などに祀る。いわゆる「祀り上げ」だ。そして、それに詣でた人が救われる。そしてそれが大流行する。一方で、その「神様」に何の御利益もなければ、「祀り捨て」という形で、廃れてしまう現象が起こっていた。こうした社会情勢を反映する格好で、文化11(1814)年には『願懸重寶記』という、御利益がある江戸の神仏を紹介した、今日で言う「ガイド本」「ムック本」も出版されている。
キリシタンのためのおしゃもじさまが神社に祀られるまでの経緯
「おしゃもじさま」に話を戻すと、本来は、キリシタンが、その信仰ゆえに、信仰を捨てるよりも、命を捨てることを選んだ殉教者の供養のために、「キリスト教」的表象をあえて取らない形で立てていたと考えられる石灯籠がいつしか埋もれ、幕府を含む多くの人々の心から「キリシタン」の存在さえもが忘れ去られた格好で時が流れる中、高輪近在のどこかで発見された。そしてそれが、先に挙げた「流行」ゆえに、神社の境内に祀られた。しかもそれは「縁結びの神」として、多くの人々の願いを叶えてきた。その結果、「祀り捨て」の憂き目に遭うこともなく、多くの人々の崇敬を集め、今日に至っているのだろう。
最後に…
「おしゃもじさま」がキリシタンの遺物でなく、日本古来の神仏を象ったものであったとすれば、民の願いを叶えて「当然」と言えば「当然」だが、イエス・キリストやマリア様、聖人など、キリスト教にまつわる神様であるにもかかわらず、キリスト教の信仰を持たないどころか、その存在も知らない民が、願いを叶えてもらうべく、必死にお祈りした際、自分は、日本の神仏ではない!と怒り、天罰を下したり、災厄をもたらしたりことがなかったということは、やはり、神様であるがゆえに、悩み苦しむ民に寄り添う心の広さや優しさを有していたということなのだろう。実にありがたい限りである。
いずれにせよ我々は、神道、仏教、キリスト教…などと、信じる宗教の違いに関し、かつての「禁教」、そして「処刑」「殉教」などのような不幸を繰り返すことなく、人それぞれの信仰への寛容さを持ちたいものである。
参考資料
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■東京都港区役所(編)『新修 港区史』1979年 東京都港区役所
■片岡弥吉『日本キリシタン殉教史』1979/1991年 時事通信社
■俵元昭『東京史跡ガイド 3 港区史跡散歩』1992/2002年 学生社
■須藤護「杓子」福田アジオ・新谷尚紀・湯川洋司・神田より子・中込睦子・渡邉欣雄(編)『日本民俗大事典 上』1999年(802頁)吉川弘文館
■品川区教育委員会(編)『しながわの史跡めぐり』1988/1997/2005年 品川区教育委員会
■宮田登『宮田登 日本を語る 4 俗信の世界』2006年 吉川弘文館
■港区教育委員会(編)『港区歴史的建造物所在調査報告書 港区の歴史的建造物』2006年 港区教育委員会
■「高輪の老舗ホテル『京品ホテル』廃業 −137年の歴史に幕を下ろす」『品川経済新聞』2008年10月20日
■奥原哲志「鉄道開業から鉄道のまちへ」品川区(編)『品川区史 2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年(18−21頁)品川区
■中園成生『かくれキリシタンの起源 −信仰と信者の実相』2018年 弦書房
■北品川二丁目町会「セピア色の品川」写真集実行委員会(編)『復刻改訂版 セピア色の品川写真集 明治から令和へ』1992/2020年 品川神社
■「江戸の殉教者 江戸の大殉教と高輪教会」『カトリック高輪教会』
■「浮世絵散歩 江戸・明治を歩く」『港区ゆかりの人物データベース』
■「願懸重寶記」『国文学研究資料館』