綱島梁川(つなしまりょうせん 1873〜1907)は現代では忘れられた思想家であるが、明治から昭和にかけての思想界を席巻した思想家である。特に「煩悶青年」と呼ばれ、自己のあり方に悩む若者たちから絶大な支持を集めた。彼らは梁川の神秘体験に裏付けされた思想・評論に宗教的熱狂を呼び起こされた。彼には講壇哲学者にはない説得力があった。綱島梁川は「神を見た男」なのである。
綱島梁川自らが「妄信時代」とよんでいた学生時代
綱島梁川は1873年(明治6年)岡山県上房郡有漢村(原・高梨市有漢町)に生を受けた。1890年キリスト教の洗礼を受け信仰生活に入る。その後、早稲田大学の前身である東京専門学校に進学。坪内逍遥(1859〜1935)、大西祝(1864〜1900)らに哲学・倫理学を学んだ。信仰への疑問を持たなかった無垢な信仰者・梁川は精神が成熟したか都市の空気に酔ったか、進化論やヒューム、カントらの西洋哲学に触れ、信仰心は大きく揺らぎ、哲学や倫理、道徳によって宗教は乗り越えられると確信するに至る。後年、梁川は地元で信仰に生きていた時代の自分を「妄信時代」と呼んでいるほどである。
結核を発病し35歳で亡くなった綱島梁川
1896年喀血。結核を発病し、1900年以降35年の短い命尽きるまで床に伏すことになる。否、梁川の人生はまさにここから始まったといえる。哲学、倫理・道徳によって宗教は乗り越えられるとして信心から遠ざかっていた梁川は、病の苦しみ、死の恐怖の前に、再び神の下に回帰した。理性や知性は死の恐怖の前には無力である。観念的な哲学思想に酔えるのも健康な身体あればこそである。梁川は、理性の冷静な抽象的な神は宗教的な神にはなり得ないと言っている。死の恐怖を「死といふ大魔王」「自然の大破壊力」などと表現していた梁川は深刻なスピリチュアル・ペインに陥っていた。梁川は神の存在と魂の不死を確信したかった。病床にて死の影と共に聖書をめくり、神との触れあいを望む日々。そして決定的な瞬間が訪れた。
「神を見た」と話した綱島梁川
1904年(明治37)この年、梁川は3度に渡る「見神」を体験した。神を見たというのである。1905年(明治38)これらの体験を「予が見神の実録」として発表。大反響を呼んだ。第1の体験は7月のある夜。神との一体感を感じ、15分ほど続いた後その感覚は消えたという。第2の体験は9月秋空の下で起こったという。次の第3の体験は最も強烈なもので、「Shocking 錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず」と書いている。
「神を見た」は胡散臭いと捉えられてもしょうがないが
神を見た、神との一体などと言うと胡散臭い輩だと思う向きもあるだろう。実際神からお告げをもらったなどの類を宣う人には近づかない方が無難である。かといって頭ごなしに否定してしまうと先人の体験も否定してしまうことになる。ソクラテス(BC470頃〜399)は神が降りたとして放心状態になったことがしばしばあった。空海(774〜835 )は炎が口の中に飛び込むという神秘体験を記しているし、カトリックには「幻視」体験が多く散見される。こうした先人の体験に比べ梁川の見神体験は深いものとはいえない。また多くの神懸かり、神降ろしと呼ばれる現象と異なり、梁川の見神体験はこの3回のみである。これ以降梁川に神秘体験は起こっていない。というよりそれ以上踏み込まなかったという方が正しい。梁川は体験そのものよりその体験を人生においていかに活かすか。「悟後の修行」を重視したのである。
神を肯定しつつも神と一線を画した綱島梁川
「神は現前せり、予は神に没入せり、而かも予は尚ほ予として個人格を失わずしてあり」(「予は見神の実験によりて何を学びたるか」)
梁川は神と合一し神に溶け込むかのような神秘体験をしながらも、自分の個としての人格は失われずにいたとしている。「神が降りた」「神の啓示を受けた」云々と、古来より神との交わりを語る者の多くは一種の法悦、エクスタシーが語られる。神との一体感による我の消失である。これには主体性の喪失という危険性があり、オウム信者などは神秘体験に囚われ個我を見失ったといえる。禅ではこのような神秘体験を「魔境」と呼び戒めている。梁川にあっては神との一体感を味わいつつも、体験にのまれず、神を他者として認識する個人格が存在した。梁川は他力を説く親鸞には傾倒したというが、基本的には仏教には批判的であった。仏教の無我論に個としての自我を解体してしまう危険を見たのである。梁川が個我を重視したのは体験がその後の人生に何をもたらすか、体験を基づきどのような思想に展開するかに重きを置いた故であった。梁川が当時の若者に支持を集めたのはその理性的な姿勢が大きいといえる。
自分がどうあるべきか悩む若者から支持を得た綱島梁川
梁川は当時の「煩悶青年」と呼ばれる若者たちに絶大な支持を受けた。1900年前後、生きる価値とはなんなのか、人生に意味などないのではないかと、人生観が揺さぶられていた若者が相次いでいた。一高生・藤村操(1886〜1903)は「万有の真相は一言に悉くす。 曰く『不可解』」と「巌頭之感」と題した辞世を詠み華厳の滝に身を投げた。藤村の自死は一躍「煩悶青年」の存在を世に知らしめた。余談だが「綱島梁川全集」を編んだ安倍能成(1883〜1966)の妻は藤村の妹である。
煩悶とは
煩悶には条件がある。1900年前後の日本は学制も完備され「学生」が大量に生まれる下地ができていた。学生たちは煩悶するだけの、煩悶ができるだけの知識、教養、時間、経済的余裕があったのだ。中でも藤村は現在の開成高校である一高生、エリート候補生であった。贅沢病といえなくもない。生きるために必死な状況で煩悶する暇はないからだ。徳富蘇峰(1863〜1957)などは「目の前の仕事に励め」と叱咤している。しかしそのようなお説教は無意味であるほど彼らも梁川と同様、スピリチュアル・ペインに陥っていたといえる。
スピリチュアル・ペインは終末期患者などに限ったことではない。現代でも生きる意味、自己の存在理由を見失い、生きることが苦痛だと訴える若者は多い。そして煩悶する若者たちは梁川を読んだ。梁川は死の影に怯え、今なお病の床にいながら見神体験を経てスピリチュアル・ペインを超越し、絶対的な個我を確立していた。梁川の著書には生死を超越した体験が神憑り的な言動ではなく、哲学的思索で表現されていた。悩める知的エリートである煩悶青年たちは藤村がそうであったように哲学的思弁を好む。しかしスピリチュアル・ペインを思弁のみで克服するのは難しい。だからといって前後不覚になった神憑りには知性が拒否をする。梁川はスピリチュアル・ペインによる煩悶から救済できる宗教的求心力と、煩悶青年を納得させるだけの哲学的思弁を兼ね備えていた。そうしたことから梁川を訪ねたり、手紙で教えを請う若者は後を絶たなかった。その中には若き日の石川啄木(1886〜1912)がいた。啄木は梁川を兄とも友とも呼ぶほど心酔していたと語っている。「煩悶なきは人の不幸也」と説く「神を見た男」は、悩める魂の受け手として若者たちに寄り添っていたのである。
宗教体験と理性の調和
末木文美士が指摘するように梁川の宗教体験についての記述は、宗教体験を公に表明し言説化したことに意味がある。梁川によって宗教を単なる聖典の反復から、自己自身の体験として理性的に語る地平が開かれたのだった。
恐怖、煩悶、悲嘆…スピリチュアル・ペインに陥ったとき、無神論、唯物論を持って克服するのは余程の精神力がなれけば難しい。かといって盲目的な信仰は周囲にも実害を及ぼす。人知を超えた存在とその存在にのまれない個我の確立。梁川の信仰、体験、理性の調和した著作は現代でこそ読まれるべきであろう。
参考資料
■綱島梁川著/安倍能成編「綱島梁川集」岩波文庫(1994)
■末木文美士「明治思想家論 (近代日本の思想・再考1)」トランスビュー(2004)
■諸富祥彦「<むなしさ>の心理学」講談社現代新書)(1997)
■關岡一成「綱島梁川のキリスト教受容(その一)」『神戸外大論叢』第48巻 2号 神戸市外国語大学(1997)
■關岡一成「綱島梁川のキリスト教受容(そのニ)」『神戸外大論叢』第51巻 5号 神戸市外国語大学(2000)
■關岡一成「『新人』と綱島梁川」『キリスト教社会問題研究』第46号 同志社大学(1998)
■上田直宏「学生のもつスピリチュアルペインの構成概念のその表出」『関西学院大学 社会学部紀要』第110号 関西学院大学(2006)
■和崎光太郎「近代日本における「煩悶青年」の再検討 : 1900年代における<青年>の変容過程」『日本の教育史学』55巻 教育史学会(2012)