みたらし団子、らくがん、練り切り、饅頭、抹茶や日本茶。和菓子やお茶はその見た目の美しさや動物性成分の使用が少ないことから、海外でも知名度が高い。もちろん日本でも普段から口にしたり、この時期では仏壇やお墓に備えたりと生活に密着している。この愛され続けてきた菓子・茶文化を現代に定着させたの禅僧・栄西である。
古代のお菓子
お菓子の歴史は古い。縄文時代では木のみをすりつぶし、あくを抜き成型したものや、それに卵を加えた「縄文クッキー(パン)」と呼ばれるものが食べられていた形跡が長野県の曽利遺跡をはじめ、東日本を中心に縄文時代の遺跡で相次いで出土している。その後、弥生時代には水稲耕作が始まり、米を使ったお菓子が作られるようになる。
普及と進化をもたらした鎌倉時代
和菓子はその時代・地域により様々な進化を続けていくが、なかでも和菓子が民衆に広まるきっかけを作り進化させたのが、鎌倉時代の禅僧・栄西である。栄西は中国・宋で禅仏教を学んだ後、貴族社会から武家社会に急激に変化をしている日本に帰国。鎌倉の武家を中心に禅を教えるが、ここでお菓子文化が発展していく。
禅僧の茶礼と茶の栽培
座禅後や食後、休憩時や就寝前など1日に数回あったとされる禅宗の「茶礼(されい)」は、皆で同じやかんを用い番茶を飲むといったものだが、ここに「茶の子(ちゃのこ)」といわれるお菓子が出されていた。茶の子は、麺類をはじめ羊羹やまんじゅうなど中国から伝えられたもので、当時では珍しいものであった。また、栄西は禅宗の布教はもちろん中国から持ち帰った茶の種を使って茶の栽培を積極的に行っており、修業に必要であった眠気覚まし効果を知っての栽培運動であった。
親しまれ続ける菓子・茶文化
茶礼は鎌倉時代後期になると、「闘茶」「茶歌舞伎」と呼ばれる茶葉の産地などをあてる娯楽としても楽しまれていく。安土桃山になると高価な茶具を鑑賞しながら茶を飲む茶道へと発展していき、江戸時代では庶民に広く飲まれているのはもちろん、幕府の正式な儀礼としても茶道が認められ、多くの流派を誕生していく。それとともに菓子も、禅僧達の伝えたまんじゅうなどから派生し、多くの焼き菓子や打ち菓子が出来ていった。
これから盆、彼岸など一家でお茶を飲みながら和菓子を食べることも多い時期となるが、布教のために遠い異国を目指し、荒波の時代を生きながら禅の心を皆に伝えた栄西禅師に想いを馳せながら口にすれば、きっといつもと違う味わいがありそうだ。