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無我は瞑想だけでなく言葉をただひたすら唱えることでも得られる

「南無阿弥陀仏」の念仏や「南無妙法蓮華経」の題目、密教に伝わる様々な真言(マントラ)。あるいは神道の祝詞やキリスト教イスラム教の祈りの言葉などの「聖なる言葉」は、葬儀や法事の場で響き渡るだけのものではない。悩み苦しむ心を平穏にし、絶望に陥った先の杖として、我々はすがるように唱えてきた。


思わず病院で念仏にすがっていた

筆者の個人的体験で恐縮だが、先日「閃輝暗点」という症状を発症し、脳外科でMRI検査に受診した。結果は「異常なし」で胸を撫で下ろしたが、かなりの恐怖を覚えた。閃輝暗点は光の輪のようなものが点滅している光景が見えるもので、大抵はその後まもなく強烈な偏頭痛か嘔吐に襲われるというが筆者にはそれがなかった。むしろそれらの症状が何も無い方が危険な兆候ありとのことで、急いで脳外科で検査した次第である。

場所が場所であるし、光の輪が徐々に広がっていくビジョンはどう考えても尋常ではない。これで何もないはずはないと冷や汗をかきながら筆者は、心の中で念仏を唱えていた。MRIで20分ほど頭部を拘束されている時も、結果が出るまでの長く感じた時間もひたすら念仏であった。異常がなかったことと念仏はおそらく何の関係もない。念仏の神通力で存在したはずの異常が消えたわけではないだろう。しかしすがることはできた。念仏を唱えている間だけは一種の瞑想状態となり恐怖を忘れられたのである。


瞑想は無我になるための一つの方法

瞑想の基本は思考を停止させ「無我」の状態になり心を平穏に保つことである。我々が悩み、恐れ、戸惑うのは常にあれこれ考えているからである。考えることを一切止めれば不安も消える。楽しいこと嬉しいことも同様である。失いたくないものは失う恐怖と表裏一体である。だから仏陀は執着を捨てろと説いたのだった。「我」がある限り執着は消えない。瞑想は「無我」になるためのメソッドなのである。そして仏教ではこの「無我」を徹底的に追究する禅が誕生した。


言葉をひたすら唱えることでも無我になれる

禅では無念無想になるべくひたすら座禅を組むが、一つの対象、言葉をひたすら唱える方向も存在する。浄土系は念仏を、日蓮系は題目を唱える唱題、密教系では真言を読誦する。禅が追究する「無」が完全な「0」であるのに対し、これらの対象は絶対的な「1」である。「1」以外の何もなければそれは「0」と同じである。

念仏なら頭の先から足の底まで「南無阿弥陀仏」に満たされることで「無我」と同じ次元に達する。ギリシャ正教に伝わる神秘思想「ヘシュカズム」には「イエスの祈り」と呼ばれる短い一節をひたすら唱え続けることで魂を浄化し、神と一体になる「神化」(テオーシス)を目指す瞑想法が実践されている。

病院で念仏を唱え続けていた筆者も非常に短い時間ながら「無我」の状態にいたのかもしれない。「無我」などというと何やら大仰な響きだが、ようするに意識が念仏で満たされて思考が停止していたのである。こうした「無我」の状態は、現代では意識の変容「変性意識状態」の一種であると解釈できる。


マントラ瞑想という瞑想法

マントラ瞑想という瞑想法がある。決められた言葉(マントラ)を心の中で繰り返し唱えるもので、念仏や唱題の現代版といってよいだろう。中でもマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー(1918〜2008)が創始したTM(超越)瞑想は世界的に普及している瞑想メソッドである。会員は指導者から独自のマントラを伝授され、ひたすら心で唱える。

瞑想家の宝彩有菜は世界中の100以上のマントラから開発した「Mマントラ」を推奨している。「オーン、ナーム、スバーハー」というこの言葉自体に意味はないが「AUM」(オーム)という発音が組み込んである。インドでは古代より聖なる音とされ「南無」やキリスト教の「アーメン」などにも同じ音が入っている。宝彩はマントラ自体には意味がない方が良いという。退屈なマントラを唱えることで様々な雑念が生まれその都度雑念を「後回し」にしてまたマントラに戻る。この作業を続けているうちに考える対象が何もなくなるとする。TM瞑想のマントラもそれ自体に意味は無いという。おそらく「AUM」のような音が組み込まれていると思われる。


無意味な言葉か、あるいは言葉に意味をもたせるか

言葉に意味があるとその意味に囚われてしまう側面もあるだろう。言葉の意味は思考を誘うことになり無我になるのを妨げるからだ。メソッドとしての瞑想なら意味のない言葉を使用するのはベストかもしれない。瞑想しやすく意識変容に導くことができるなら念仏でも題目でも何でもよいと思われる。しかし選んだ言葉に絶大な信頼を置くにはやはり意味が必要である。ただ心をリフレッシュするためではなく人生の苦境に立たされた時、念仏や題目のような古来から伝わり神仏が宿るとされる「聖なる言葉」に、我々はすがることができる。言葉が守りとなるのだ。宗教と瞑想は切り離せないが、宗教の本義は神仏にすがること、信仰である。瞑想もまた信仰の要素が加わることでエクササイズ以上の価値が生まれる。


「聖なる言葉」にすがる

「聖なる言葉」は時として神仏との邂逅すら可能にするともいう。ヘシュカズムの目的はまさにそれであるし、空海(774〜835 )が真言を100万回唱え続ける荒行「虚空蔵求聞持法」を修し、明けの明星が口の中に飛び込むという神秘体験を得たと自ら記しているのはよく知られている。近年では浄土宗の聖者、山崎弁栄(1859〜1920)が60日間に1日10万遍の念仏三昧を修したと言われている。彼は阿弥陀仏を感得する「見仏」を実現したという。「見仏」(見神)と「無我」は正反対のように思われるが、先述した「0」と「1」の違いに過ぎない。ただ「1」の方向には「聖なる言葉」がある。我々の凡人でもその言葉を唱えることで神仏の一端に触れることができる。


「聖なる言葉」に親しむ

ステイホームが推奨される昨今、ヨガや瞑想が注目されている。宝彩式のような宗教色の無い瞑想メソッドは疲れきった日常生活における癒やしが期待できる。一方で非日常的な極限状況においては「すがる」要素を加えた「聖なる言葉」が必要となる。死に直面したスピリチュアルペインの現場においても一助になりうるはずである。苦しみの原因は言葉(思考)かもしれないが、救ってくれるのもまた言葉だ。日常とは脆いものである。何かひとつお守りとして親しんでおくのはいいかもしれない。


参考資料

■落合仁司「地中海の無限者 東西キリスト教の神・人間論」春秋社(1995)
■宝彩有菜「始めよう。瞑想」光文社(2007)
■佐々木有一「近代の念仏聖者 山崎弁栄」春秋社(2015)


ライター 渡邉 昇

記事掲載日:2021/06/24

迷走戦士・永田カビ

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