1970年代、テレビがメディアの主役だった時代、「超能力者」として日本中に一大ブームを巻き起こしたユリ・ゲラー氏が2021年1月4日に、母国・イスラエルで新型コロナウィルスワクチンを接種しながら、スプーン曲げを披露する映像が報道された。AIブームを筆頭に、科学万能の現在よりもはるかに、科学技術そのものが進んでおらず、「不思議なこと」に対する人々の懐疑心や警戒心が希薄だった明治時代末期の日本で、ユリ・ゲラーのように日本中を席巻した人物がいた。熊本の御船千鶴子(みふねちづこ、1886〜1911)だ。
御船千鶴子はどんな人物だったか
千鶴子は明治19(1886)年、八代海(やつしろかい)/不知火海(しらぬいかい)に面した、熊本県宇土郡松合村(現・宇城(うき)市不知火町松合(まつあい))に生まれた。元士族の父親・秀益は、漢方医院を開業していた。生まれつき難聴だったという千鶴子だが、人並み外れた集中力の持ち主だった。また、感情の起伏が激しく、時に脆いところがあった。とはいえ、観音菩薩への強い信仰心を有する、謙虚な人物でもあった。しかし人から約束を破られた際には、いつまでもそれを忘れず、恨みを抱いたり、第一印象で人を決めたりする傾向があったため、一旦悪印象を抱いた人物に対しては、どんなことがあっても覆すことができない「こだわり」の強さを有するなど、人付き合いがうまくできない側面もあった。
結婚をした御船千鶴子だったが
22歳のときに陸軍歩兵中尉と結婚したものの、夫は結婚後わずか3週間で、外地の守備隊に転属となった。同居していた舅や姑からは、「ぼんやりしている」「家を治める才覚がない」などと疎まれる日々が続いていた。しかも、後の「透視能力」の萌芽だったのか、夫の財布から紛失していた50円が、姑の仏壇にあることを言い当ててしまい、逆に姑から盗みの疑いをかけられ、自殺未遂をしてしまう。最終的に離縁され、千鶴子は実家に戻ることになった。
千里眼の持ち主としての御船千鶴子
実家には、明治36〜7(1903〜1904)年前後から、催眠術を用いた民間治療を行っていた義兄の清原猛雄がいた。猛雄は、千鶴子の信仰心の篤さや秀でた集中力に目をつけ、「千里眼ができる」と暗示をかける催眠術を千鶴子が17歳の頃から施していた。千鶴子が実家に戻った当時はちょうど、日露戦争(1904〜1905)下で、商船・常陸丸(ひたちまる)の遭難が世間を騒がせていた。そこで清原は千鶴子に、熊本を本拠とする第6師団の兵士が常陸丸に乗船しているか否かを訪ねてみた。千鶴子は「いったん長崎を出発したが、途中で故障のため長崎に引き返したため、乗船していない」と答えた。その3日後、その言葉が的中していたことがわかった。それが地元で大きな話題となり、猛雄の「診療所」には、千鶴子による、「患者」の病を見定める「人体透視」、そして猛雄の催眠術目当てで通う人々が相次いだという。その中には、具体的な時期は不明だが、福岡県大牟田市で三池炭鉱を経営していた三井財閥本社からの人物もおり、かねて不調に終わっていた新坑開発のため、石炭の鉱脈を千鶴子に透視させた。すると千鶴子は「もう少し南に真っ黒い塊が見える」と答えた。その言葉に従い探査した結果、大規模な石炭層が発見された。しかもそれは、昭和26(1951)年まで稼働し、最盛期の昭和2(1927)〜20(1945)年の19年間で1643万トン以上の産出量を誇った万田(まんだ)坑だったという話も伝わっている。
全国区になった御船千鶴子
千鶴子の評判は熊本県内にとどまらず、明治42(1909)年8月14日付の『東京朝日新聞』に、「不思議なる透見(とうけん)法 発見者は熊本の女」という見出しで大々的に取り上げられることとなった。しかもそれにとどまらず、催眠術や千里眼の研究を重ねていた東京帝国大学文科大学(現・東京大学文学部)の福来友吉(ふくらいともきち、1869〜1952)や、精神医学の研究者であった京都帝国大学医科大学(現・京都大学医学部)の今村新吉(1874〜1946)らの関心を惹き、明治43(1910)年9月には、京都・東京・大阪で大々的な「透視実験」が行われるに至った。
彼らが試みた実験は、千鶴子の透視能力を見極めるためのもので、例えば、厳重に封印され、容易に開閉できない錫製の茶壺の中に入れてある名刺の名前や、任意に選んだ中国の漢詩の一句などを透視させたりした。時に失敗することも少なくなかったが、千鶴子は次々と言い当てることができた。そうなるとマスコミは「第2・第3の御船千鶴子を探せ!」とばかり、地域の「千里眼」と噂される人々を取り上げ、煽る。煽られて更に、別の「千里眼」が現れる。12月には『東京朝日新聞』が、朝鮮半島の「千里眼」まで取り上げられる格好となっていた。
しかし福来らが行った実験には、「問題点」が多々存在していた。例えば、透視をする際の千鶴子は別室にひとりで籠り、立会人にも背を向けていた。千鶴子は繊細な性格ゆえに、多くの人がそばで見守っている格好の「公的」な科学実験では精神統一ができず、透視に失敗してしまうのだ。そうなると、何か「不正」をしているのではないか。または、何らかの「トリック」があるのではないか、と疑われてしまっても無理はなかった。それゆえ、市民レベルのみならず、アカデミズムの世界においても、「千里眼」という特殊能力に対する議論が喧々諤々状態に陥ってしまった。
御船千鶴子の自死と死後
千鶴子から少し遅れる形で「透視」のみならず「念写」能力があるとして、日本国内で大いに騒がれていた長尾郁子(1871〜1911)への弾劾記事が、実験翌年の1月17日に掲載された。その翌日、千鶴子は重クロム酸カリを飲み、服毒自殺を図った。猛雄らの手当ても虚しく、1月19日の早朝、絶命した。遺書も遺言もなかった。25歳だった。
千鶴子の自殺の原因としては、長尾に関する新聞記事を読んでから、かなり憤慨していたと伝えられることから、自分の「千里眼」に疑いを持つ人々への苛立ち。また、父親の秀益が「山っ気」の強い人物で、千鶴子の特殊能力を利用してひと儲けを企て、大阪の相場師や鉱山師と勝手に契約したとして、千鶴子と諍いが絶えなかったこと。また秀益は、千鶴子の千里眼を開眼させた猛雄とも仲が悪く、千鶴子はその板挟みで苦しんでいたこと。そして千鶴子自身が千里眼の「衰え」を感じていたことに加え、自分同様に世間から脚光を浴びている長尾の存在や、清原の妻であり、自身の姉である眞知子もまた、清原から透視能力を開発され、その能力を発揮し始めてもいたことから、焦りや嫉妬があったのではないか、とも言われている。しかしこれらは、あくまでも憶測でしかない。
不思議なことに、千鶴子の葬儀の際、または千鶴子の死後から現在に至るまで、「千里眼」という、人知を超えた力を有していたとされる千鶴子であったにもかかわらず、怪異、または神秘的な現象が起こったという話は残されていない。それは、現実に何も起こらなかったのか。または、千鶴子の特殊能力を信じつつも、合理的かつ理性的知性に基づき、それを科学的に立証しようとしていた福来博士らのみならず、明治維新以降、西欧に倣い、「近代化」を推し進めようとしていた日本全体を覆っていた「時代の空気」ゆえに、非科学的または前近代的な「迷妄」として、「なかったこと」にされた可能性もある。
数奇な運命を辿った御船千鶴子
千鶴子の生誕地・熊本県宇城市不知火町松合の小高い丘の上に、「六地蔵公園」がある。八代海を一望できる美しい場所ではあるが、「京都」「奈良」、東京の「上野」「原宿」…など、人が大勢詰めかける一大「観光スポット」ではないため、コロナ禍の有無に関わらず、静寂を保ってきた。そのそばに、御船家の墓所があり、千鶴子もそこに眠っている。
江戸時代の川柳に「下駄となり仏ともなる木々の運」がある。木は運命を選べない。人の足に踏まれる下駄になるか、それとも著名な仏師によって彫られた、人に崇められ、大切に扱われる仏様になるか。まさに「運」次第だ。もしも「千里眼」がなかったとしたら、千鶴子は「普通の女性」として、一生を終えたはずだ。または、たとえ「千里眼」があったとして、それが地域で話題となり、近在の人々に対して「心霊治療」を行うことがあったとしても、「文明開化」後の日本のように、西欧文化・文明の流入による科学主義の勃興、そして新聞という、日本全国に広く伝播するマスメディアの発達を迎えることがなかった江戸時代以前の日本で生きていたとしたら、「大騒ぎ」になることはなく、昔ながらの「拝み屋さん」のように崇敬を集めつつ、自分の能力に誇りを持って一生を全うすることができただろう。しかし、それは叶わなかった。まさに運命の皮肉である。
最期に…
千鶴子を高く評価していた福来は後に、自身の研究を記した『観念は生物なり』(1925年)において、「近き将来において、必ずや彼女が心霊研究界の明星として、其の光輝を放つべき時の到来することを、私は信じて疑わぬのである」と書き記している。将来、新たな科学技術の発展、そして時代の空気の変転によって、千鶴子の「千里眼」が解き明かされる時がくるかもしれない。そうなると、御船家の墓所は「心霊研究の明星」が眠る「聖地」となり、海辺の町・松合までもが「一大観光スポット」になることだろう。そして毎年6月19日に営まれ、季節の風物詩ともなっている作家・太宰治(1909〜1948)の「桜桃忌」のように「○○忌」と名づけられ、千鶴子の命日・1月19日になると、毎年、千鶴子ゆかりの寺院で法要が営まれ、日本各地から千鶴子を慕う多くの人々が慰霊に訪れることになるのだろう。それは千鶴子が望むことなのか、どうなのか。いずれにせよ、自ら死を選んだ千鶴子の魂の安寧、そして松合の墓所の静寂を、こころから祈らずにはいられない。
参考資料
■高橋政之『千里眼・透覚容易』1910年 春江堂
■竹内楠三『千里眼』1910年 二松堂
■薄井秀一『神通力の研究』1911年 東亜堂書房
■福来友吉『透視と念写』1913年 東京宝文館
■神秘術研究会(編)『実行実在千里眼独習 附人世予言術』1913年 盛報館
■福来友吉『観念は生物なり』1925年 日本心霊学会
■福来友吉『心霊と神秘世界』1932年 人文書院
■高橋宮二『千里眼問題の真相 千里眼受難史』1933年 人文書院
■大牟田市役所(編)『大牟田市史 (全)(復刻版)』1944年/1974年 名著出版
■熊本日日新聞情報センター(編)『新聞に見る 世相くまもと 明治・大正編』1992年 熊本日日新聞
■芳賀登・一番ヶ瀬康子・中嶌邦・祖田浩一(監修)『日本女性人名辞典』1993年 日本図書センター
■一柳廣孝『<こっくりさん>と<千里眼> 日本近代と心霊学』1994年 講談社
■島薗進「千里眼」佐々木宏幹・宮田登・山折哲雄(監修)『日本民俗宗教辞典』1998年(337頁)東京堂出版
■荒尾市史編集委員会(編)『荒尾市史 環境・民俗編』2000年 荒尾市
■佐藤伸二(監修)『目で見る 宇城・上益城の100年』2000年 郷土出版社
■荒尾市史編集委員会(編)『荒尾の文化遺産 荒尾市史別編 一』2003年 荒尾市
■寺沢龍『透視も念写も事実である −福来友吉と千里眼事件』2004年 草思社
■長山靖生『千里眼事件 科学とオカルトの明治日本』2005年 平凡社
■たばこと塩の博物館(編)『企画展 川柳と浮世絵で楽しむ江戸散歩』2006年 たばこと塩の博物館
■小山良『新聞に見るくまもと 庶民のくらし 〜明治・大正・昭和初期〜』2012年 火の国悠久の会
■ 「万田坑と御船千鶴子」『熊本県荒尾市 日蓮宗大乗山 妙国寺』2012年7月18日
■宮地英敏「三池炭鉱」宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹(編)『明治時代史大辞典』第3巻 2013年(513頁)吉川弘文館
■戸田靖久「御船千鶴子」宮地正人・佐藤能丸・櫻井良樹(編)『明治時代史大辞典』第3巻 2013年(553頁)吉川弘文館
■朝里樹『歴史人物怪異談事典』2019年 幻冬舎
■秋山眞人/布施泰和(協力)『日本のオカルト150年史 日本人はどんな超常世界を目撃してきたか』2020年 河出書房出版
■ 「ユリ・ゲラーさん、スプーン曲げをしながら新型コロナのワクチン接種。『人生で初だ』」2021年1月2日『HUFFPOST日本版』
■「ユリ・ゲラー氏 ワクチン接種しながら…」『0テレニュース24』2021年1月4日
■「万田坑の歴史」『荒尾市』
■「松合の六地蔵」『宇城市』
■「松合郷土資料館」『九州旅ネット』