受験生とパワースポット巡りをするような人を除けば、現代の日本人のほとんどが仏教といえば葬式のイメージが強い。浄土宗と浄土真宗の違い、臨済宗と曹洞宗が同じ禅宗であることも認識していない人が多数ではないか。その教えの特徴を知れば仏教の多様性に驚くことだろう。そしてそのほとんどが伝教大師・最澄(767~822)の開いた天台宗を起源とするものである。
仏教の人気ランキングや認知度を考えると…
仏教に触れようという人たちに人気と知名度が高いと思われるものに禅が挙げられる。禅・座禅と聞いて何のイメージも湧かない人は少ないと思われる。
次いで密教系。真言密教とチベット密教がランクインすると思われる。神秘体験やオカルト的嗜好の人には定番といってよく、漫画やアニメにも頻繁に登場する。近年では上座部(南伝)仏教系のテーラワーダ仏教が急上昇中である。マインドフルネス瞑想との親和性や、アルボムッレ・スマナサーラ老師の活躍もあり、また既存仏教の堕落したイメージからこれぞ正統派の仏教だと絶賛されている。
浄土系はそれ自体はあまり人気があるとは言えないが、書店を覗くと親鸞と、親鸞の言葉を集めた「歎異抄」を扱う書籍が多く見られる。煩悩だらけの凡人を癒やしてくれる内容が日々の生活に疲れている人たちに好評のようだ。
日蓮系は与党・公明党、創価学会など政治的関心を集めている。また奈良仏教の最大宗派・法相宗の教学・唯識は深層心理学との比較などで注目されている。
こうした中で影響力の大きさに比して影が薄いように思える大宗派が天台宗である。
日本天台の思想とは?天台本覚思想とは?
日本の天台宗は最澄が中国に渡り、天台智顗(てんだい・ちぎ538~597)が確立した天台教学を中心に、密教、戒(律)、禅の四種を相承し組み込んだ総合宗派である。最澄が開いた比叡山延暦寺は仏教の総合大学となっていた。
天台教学は私たちがこの現実世界をどう捉えるかについて、「仮」「空」「中」を説く。元々仏教では現実世界は本来は存在しない「空」であり、現実世界は「仮」の世界であるとした。しかし「空」である=どうせ何も存在しないというニヒリズムに陥る危険があった。そこで天台智顗は、世界の本質は「空」であっても、私たちはこの「仮」の世界を生きていることも事実である。つまり「仮」にも「空」にも捉われることなく現実世界をありのままに生きていく。これが「中」である。
このありのままの思想は日本に渡りさらに発展を遂げた。それが「天台本覚思想」である。いわゆる「山川草木悉皆成仏」と言われる境地で、世界の隅々まで仏性で溢れており、全てはありのままで悟った姿であるとする。この「ありのまま」の思想は宗教に留まらず、日本の文化、日本人の精神性に大きな影響を与えた。
天台宗の影響力とその功績
鎌倉仏教の祖師たち、法然(1133〜1212)、親鸞(1173〜1262)、道元(1200〜1253)、日蓮(1222〜1282)などは、いずれも比叡山で仏法を学んでいる。彼らは総合大学・天台宗で学んだ仏教各分野の中から、念仏、禅、題目などを選択し、それぞれひとつの道を深めていった。 浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗らは天台宗の分派だと言っても誤りではない。天台宗は宗教的にも歴史的にも多大な影響を与えたのである。
天台宗がなかったら日本の文化はどうなっていたか想像ができない。それにも関わらず天台は人気がない。総合的で複雑な体系と、開祖の最澄が地味な印象を残していることが大きいといえる。その一因として最澄のライバル、空海の存在がある。
最澄のライバルとも言える空海の存在は天台宗の不人気の一因
世に名高いライバル関係として比較される空海(774〜835 )は真言密教の正統伝承者であり、様々な異能を発揮した天才であった。密教は当時中国を席巻した最先端の仏教で、密教を重要視しなかった最澄も帰国間際に急ぎ足で密教の入門儀式である灌頂を受けた。帰国後の最澄を待っていたのは密教待望の空気だった。最澄が情熱を注いだ天台教学より、ついでの土産のようなものだった密教こそが求められていたのだ。世の人々は学問と瞑想というストイックな天台教学より、病気を治癒し雨を降らせるとされた密教の呪術性に期待した。そこへ真言密教の全伝を伝承し、様々な法具を持ち帰った空海が現れた。空海の才能は文学、芸術にも発揮され時の天皇(嵯峨天皇 786〜842)に重用された。そんな空海の才能に最澄は嫉妬するどころか、自分が不完全な形で輸入してしまった密教を学べると積極的に交流を求めたのである。最澄は弟子を空海の下に送り込み真言密教の修行をさせ、自分は密教経典を空海から借りて密教の知識に吸収しようとした。しかしその熱心さ、貪欲な学究心に空海は辟易してしまった。最澄の弟子・泰範(778〜?)が空海の正式弟子となり比叡山に戻らなくなってしまった問題もあり2人は絶縁してしまった。
最澄の利他行と慈悲
空海が辟易したのもわからないではない。印を組み、真言を唱え「即身成仏」を目指す密教は知識より体験を重んじる。空海にしてみれば「いくら本を読んでも体験なくして密教がわかってたまるか。密教の経典は学者の知識欲を満たすためではない 」となり、最澄にもその旨の手紙を送りつけている。全くもって正論であるが、最澄がそれをわからないはずはない。だからこそ弟子を空海の下に送り込んだのだ。
そもそも最澄は自分が悟りを得るとか、仏教者として完成しようとは考えていなかったふしがある。最澄は自分の修行より体系作りに重きを置いていた。それはつまり後進のため、ゆくゆくは何十年何百年先の日本人のためである。決して宗教的天才とはいえない学者肌の最澄は、自分が悟ることに精一杯では体系は作れないと自覚していたのではないか。空海のような天才ではない最澄が選んだのは、後に続く世代が仏法を完成させる、つまり悟りを得るための体系を用意する道だったと思える。
悟るのは自分でなくてもよい。最澄がそう考えて体系構築を優先していたとしたら、まさに利他行である。大乗仏教の本道である慈悲の心の現れとはいえないか。志半ばで終わった最澄の意思は円仁(794〜864)、円珍(814〜891)らによって不足していた密教の要素が充実し、天台宗は仏教の総合大学となった。その後、比叡山は肥大化して僧侶の堕落を招いたが、その現状を憂いた偉才たちは山を降り、これまで学んだ天台の総合的知識の中から、念仏や禅などを選択して洗練し、鎌倉仏教を創始していった。最澄の蒔いた種は大輪の花を咲かせたのである。最澄の真髄はそこにあるといってよい。
地味な学僧・最澄はどうしても天才・空海と比較され、空海のかませにされがちである。空海はその半生から謎めいており、日本における神秘主義の象徴である。神秘的な要素を取り払い、史実の功績だけ集めてもやはり天才としか言いようのない傑物であった。しかしそれ故に空海の体系は完成してしまい、真言宗からは天台宗ほどの傑物は輩出していない。空海が完全すぎたのだ。天台宗の発展、傑物の輩出は最澄が不完全だったからこそである。
最も澄める人
空海が空前絶後の天才故に地味な印象が否めない最澄だが、仏法への純粋さ、飽くなき学究心、体系構築の能力は凡人の及ぶところではない。総合大学・天台宗は多くの人たちに救いの手を差し伸べる結果を残した。自分の悟りより他人の悟りのために生きた彼は確かに「最も澄める」人であった。最澄の再評価はこれからである。
参考資料
■田村芳朗/梅原猛「仏教の思想5 絶対の真理<天台>」角川文庫ソフィア(1996)
■木内堯央「最澄と天台教団」講談社学術文庫(2020)