仏教経典の言葉を書写する写経。最近はヒーリング・エクササイズのひとつとして定着しているようだ。お香の焚かれた仏間で心を浄める写経は、癒やしと気づきのひとときを与えてくれる。写経は従来の習字や読書とは異なる。経典は仏の説く教えと、言葉自体に秘められた神秘との対話である。
写経の始まり 呪術としての仏教
日本における写経は天武天皇(?〜686)が書生を集めて「一切経」を書写したという「日本書紀」の記述が最古の記録とされている。平清盛(1118〜1181)の平家一門が、写経をした「法華経」を厳島神社に奉納した「平家納経」は特に有名である。写経の目的は病気平癒、戦乱の平定など様々で、経典の呪術的な力にすがって人智を超えた困難、災厄を乗り越えたいとする思いが伝わる。保元の乱(1156)で敗れ、讃岐に配流された崇徳上皇(1119~1164)は血を筆に染めて大乗経五部を血写したという。まさに呪術そのものである。元々仏教が伝来して為政者が飛びついたのは呪術的な力を期待してのものだった。無名の僧であった空海(774〜835 )が朝廷に重用されたのも空海が全伝を継承した密教の呪術としての魅力故であった。仏教には素朴な日本の神祇には無い複雑な思想体系があった。日本人はその深遠な教えの奥に神秘を見たのだ。
お経の意味と霊験
お経には呪術的、神秘的な力が宿っているとされている。お経にまつわる霊験譚は多い。「法華経」「般若心経」「延命十句観音経」などが有名だが、こうしたお経は唱えるどころか聞くだけでも災厄を防ぎ病気を治癒するという。そのような話を聞くと経典とは呪文の集まりなのかと思ってしまうが、そのようなことは全くない。真言や陀羅尼の類は正しく呪文で意味はわからないが、日本人に最も知られているであろう「般若心経」は、一切の存在は「無」であると説く哲学書に近い。これを写経して功徳を得られるというなら、知覚していない物質の非実在性を説くジョージ・バークリー(1685〜1753)の著書や、量子力学の本などでもいいことになる。また「観無量寿経」は極楽往生するための瞑想テクニックが書かれている、いわばハウツー本である。これを写経することは、瞑想の説明を読んだり書いたりすることで瞑想(写経)するというわけのわからないことになってしまう。重要なことはお経の意味ではなく、お経それ自体に神秘が宿っていると信じることである。玄侑宗久は意味など考えずにとにかく唱えることだと述べている。一文字一文字に仏が宿るとされる教えは「言霊」を重んじる日本人には相性が良かったのだろう。
写経の心理的効果
現代においても写経に霊験はあるだろうか。少なくとも写経をすることによって心理的な効果が期待できるという考察がある。写経は専用のテキストなども販売しており自宅でもできるが、やはり寺院の写経教室などに参加する方が効果は高いようだ。何故なら寺院で写経を行うという行為は、非日常的空間の中で非日常的行為を行うことである。寺社は世間から隔絶された神秘的な空間。座禅道場、一日出家体験などが人気を博しているのは疲れきった日常からのインナートリップをしたいためと思われる。
中尾将大(大谷大阪大学)はこの日常と非日常の循環による「気づき」の効果を指摘している。中尾によると写経参加者は非日常的空間(寺院)から日常生活へ帰還する。そして日常生活の中で新たな悩みや問題を抱え、また寺院に戻り、再び帰還する。この循環の中で解決を積み重ね、少しずつ成長していく。その成長とは「人格の成長・智慧の開発(仏教では仏になる)」のことだという。特に寺院でなくてもジムや習い事、外国でも非日常的体験は得られる。しかしここで指摘されるような「成長・開発」の獲得を写経に期待できるのは、写経が瞑想の一種であるからだと思われる。力を持つと信じられている聖なる言葉の一文字一文字を丁寧に書き没我することで、瞑想、マインドフルネス的な効果が得られるのではないだろうか。さらに深く追究していけば、いわゆる「三昧」の境地に達することも不可能ではない。写経は元々仏道修行なのだから当然ではある。
手紙に込められた「思い」
そこまで高邁な目標を掲げなくとも、写経の参加者は心を込めて言葉と向き合う。親しい人に手紙をしたためる心持ちに似ているようにも思える。最近は手書きで手紙を書くことも少なくなった。一字一句に気を配り、誤字脱字、言葉の選び方に気を配りながら思いを綴るのは中々に大変な作業である。自ら筆を取ることのなくなったデジタル時代の現代であればなおさらである。そうした時代にあえて手紙を書くとすれば、よほど相手に伝えたいことがある時だろう。便箋に綴られた一文字一文字には心が宿っている。写経は仏菩薩に祈りを込め願いを託し、自分自身を見つめ直し、自問自答をする。いわば仏菩薩や自身に宛てた手紙だと言える。
真摯な心になる写経
お経に神秘的な力が宿っているのか筆者にはわからないが、長い歴史を通じて様々な人が託した思いが込められていることは事実である。仏の教えと古来より伝わる尊い言霊に触れ、書く。写経を行う人が真摯な心持ちでお経に向き合うことは間違いない。その非日常的体験は確かに心に何かを残しそうである。コロナ禍の現在、寺院に足を運ぶことも難しいが、ボールペンで書く写経テキストも発売されているようだ。ストレスが溜まる日々の中、まずは30分でも仏の言葉に触れてみてはいかがか。
参考資料
■中尾将大「日本人における『写経』にまつわる心理的効果ー説明仮説の提言ー」『日本仏教心理学会誌』第5号(2014)
■玄侑宗久「現代語訳 般若心経」ちくま新書(2006)
■ブックスエソテリカ第27号「お経の本」学研(2001)