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誕生日は死へのカウントダウン?柳沢教授が考える誕生日を祝う理由

私たちは正月や誕生日など、人生の区切りになる日をを迎え年を重ね成長していく。しかしそれは、心身が衰え、やがて死を迎えるまでのカウントダウンでもある。年を重ねることは善きことなのか、忌むべきものなのか。


死への一歩

「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

一休禅師(1394〜1481)の編んだ詩集「狂雲集」の一節である。一休には正月に人間の髑髏を刺した竹竿を持って練り歩いた驚くべき逸話がある。門松は正月の象徴であり、どこの家もめでたいめでたいとはしゃいでいるが、新年を迎えることは年を重ねること。つまり死に一歩近づいた一里塚=目印、標示である。一休は新年最初の日に、世の無常を説いたのである。

空気を読めと言いたくなるが、冥土の旅の一里塚と言われれば確かにその通りである。それでも人は年を重ねることを喜ぶ。誕生日がそれである。こちらは正月以上に「一里塚」を意識するだろう。しかし年を重ねることはただ無常であるだけだろうか。


「天才 柳沢教授の生活」の一コマで扱った誕生日を祝う理由

そもそも誕生日とは何か。何故誕生日を祝うのか。山下和美の漫画「天才 柳沢教授の生活」の柳沢良則教授と共に考察してみたい。以下は柳沢教授と、学生たちが自分の60歳の誕生日を祝ってくれることに疑問を抱く江古田教授との問答である(26巻・第189話「祝宴までの道程」)。

「そもそも何故、誕生日を祝うこと当たり前になったのだ?」


本気でわからない誕生日を祝う理由

江古田教授は誕生日を祝う意味がわからない。柳沢教授もまたわからない一人であった。筆者もそう改めて問われると、何がめでたいのかよくわからない。よくよく考えると至極当然である。何かを成し遂げたわけでも、逆に何かから解放されたわけでもない。32歳が33歳になったところで祝う意味は「特には」見出せない。生きていること自体に価値があるのだと言われれば確かにその通りなのだが、それなら30とか40とかキリの良い年齢でもよかろうと思う。そう毎年毎年生きていることを実感させられても身が持たない。


老うことを祝うとは

アンチエンジングという言葉も定着した。悟り済ましたことを言っても、やはり年を取るのは嫌なものである。肉は増え、息は上がり、記憶力も低下する。脳も肉体であるからには衰えるのは自然の理である。肉体とはかくも、時の神に忠実な僕であるかと実感する。しかし、健全に年を重ねていけばの話だが、年齢と共に冴えてくるものもある。「精神」=Geist、もしくは「魂」=Seeleである。

柳沢教授はここまで皆が祝ってくれるのには他に何か意味があるはずだと思考を巡らし、その健全なる精神はひとつの答えを導き出す。

「誕生日とは生まれて初めての経験…ではないでしょうか」

「人間にとってひとつ年をとるということは、生まれて始めての“領域”に入ることとも言えます。その違いが些細だったとしても、決して60歳を前に60歳を経験することはできない。明らかに違う何かが生まれているはずです。未知への偉大なる一歩なのです」


柳沢教授が考える誕生日を祝う理由とは

中原中也(1907〜37)は天才だったが、30代という未知の領域に広がる世界を見ることはできなかった。逆に葛飾北斎(1760〜1849)は改号30回、転居93回を繰り返し、「あと5年生き長らえていれば本当の絵描きになれた」と言って90歳で臨終を迎えた。北斎は未知の領域への歩みを止めようとはしなかったのである。
未知の領域、その最初のステージが誕生日である。この柳沢論を江古田教授は詭弁だと断じて、「君は自分が好きなんだな」と皮肉る。しかし柳沢教授はこう返す。

「私は自分が好きです。だから人のことも好きになります」

柳沢教授はそこからさらに視点を広げて結論に達する。

「つまるところ誕生日を祝うということは、あなたの人生を皆が愛しているということなのです」

誕生日を祝うとは、その人の人生を皆が愛しているということ。江古田教授は大悟し満足して去った。最後にこの議論をずっと聞いていたという学生(教授の四女の恋人)の「誕生日のお祝いくらいで何でそこまで…」というもっともな感想でこの話は終わる。


誕生日は「善きこと」である

柳沢教授は誕生日とは、新しい領域に踏み込むことだと結論づけ肯定的に捉えた。教授にとって誕生日とは、ソクラテス(BC470頃〜399)の言い方を真似ると「善きこと」であった。善きこととは幸福か?不幸か?この文脈でいえば、それは幸福である。当然自分の誕生日を祝われることも幸福である。だから江古田教授は、自分自身も幸福にしたい柳沢教授に対して、「自分が好きなんだな」と皮肉ったのである。そして柳沢教授は自分にとって善きことは、自分だけでなく、人にもそうあってほしいと思っている。

他人が善きこと→幸福であることを祝うのは、その人を好きだからだ。好きな人にも善きこと→新しい領域に踏み込んでほしい、そう願うことだ。誕生日を祝うとは、その人の人生を祝うこと。その人の人生を愛しているということである。

誕生日はその人が生まれ、今も存在していることの証。誕生日とはむしろ祝う人達の方が、存在してくれてありがとうと、お礼を言う儀式なのかもしれない。正月に話を戻すと正月こそ自分知人隣人全員の誕生日といえる。だから人は正月を祝うのである。


死もまた「善きこと」かもしれない

一休の指摘も真理ではある。死はどのみち逃れられないゴール。正月も誕生日も冥土の旅の一里塚なのは間違いない。しかし誕生日が未知の領域への一歩であり、それが善きことであるなら、死もまた未知の領域である。それならば死もまた善きことかもしれないではないか。

ソクラテスに倣って「善きこと」という言い方を取り入れたが、ソクラテスはまさに死後の次のステージを確信していて、死を善きこととして自ら毒杯を仰いだ。おそらく柳沢教授も臨終に際して、この先に何があるのだろうとワクワクしながら目を閉じるに違いない。私たちもまた未知の領域を楽しみにしながら誕生日とそして死を迎えたいものである。


参考資料

■山下和美「天才!柳沢教授の生活 26巻」 講談社(2008)
■プラトン著/岩田靖夫訳「パイドン―魂の不死について」岩波文庫(1998)
■プラトン著/久保勉「ソクラテスの弁明・クリトン」岩波文庫(2007)


ライター 渡邉 昇

記事掲載日:2021/05/17

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