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現代社会で喪失しつつあるつながりと神話の存在感の消失との関係性

ポールゴーギャン(1848〜1903)の代表作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」このタイトルは人間の一生を描いている。人の一生とは、気がつけば存在していて、自分が何者であるかを問い続け、死という未知の領域へ旅立つ。つまりすべてが謎である。「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終りに冥(くら)し」とは、空海(774〜835) の言葉である(秘蔵法鑰)。科学では満たされない謎に対する存在の不安を、私たちは神話という「大きな物語」に依って生きてきた。


似て非なる神話とおとぎ話

映画「ドラえもん アニマル惑星(プラネット)」(1990)のとあるワンシーン。舞台は擬人化された動物たちが暮らす星「アニマル星」。のび太とドラえもんが友人になった犬の少年宅にて、少年の父親が語る星の創生神話を聞いていると、少年が「おとぎ話さ」と茶々を入れた。すると父親は「おとぎ話じゃない!神話だ!」と一喝した。おとぎ話と神話、何が違うというのだろうか。おとぎ話にはいくつも寓意が含まれているとされ、これはこれで知的好奇心を刺激されるが、普通はやはり他愛もない物語でしかない。しかし神話は、私たちにはルーツがあり、そのルーツから連綿と連なるその果てに存在しているという事実と意味を語り継ぐ。


神話とは脈々と紡がれてきたわたしたちのルーツ

神話は歴史的事実とは異なる、民族の起源、アイデンティティ、コスモロジー(宇宙観・世界観)を共有するための物語である。太古の時代から連なるとする悠久の「つながり」は、多くの日本人の精神的風土に深く根付いている。個を超えた大いなる存在「トランスパーソナル」とのつながりを提唱する、「トランスパーソナル心理学」の研究者・岡野守也はこのようなコスモロジーについて次のように語る。

「近代以前の人間は、基本的に神話的なコスモロジーで生きていた。」(1)

「それらはいずれも、人間と人間を超えたより大いなる存在とのつながりを語り、またそれとの関わりで人間と自然のつながり、人間と人間のつながりをも語るコスモロジーであり、そういう意味で言えば、「つながりかさなりコスモロジー」であったと思われる(1)。

岡野は現代社会ではそのような「つながり」という物語は喪失しつつあるとし、その再建の重要性を説いている(2)。


「大いなる存在」=縦のつながりとその喪失

岡野が述べる「つながり」とは、両親、祖父母と遡り、宇宙の始原へとつながっていき、翻っては自分の子供、孫と連なる、垂直的・時間的・歴史的な関係性、いわば「縦」の「つながり」である。この「つながり」は自分が存在しているのは決して自分の力ではなく、大いなる生命の流れの中で「自分を超えた大いなる何か」(2)に与えられたものであり、決して意味のない、ただ存在するだけの存在ではないことを教えてくれる。人間はそこに畏敬の念を抱かざるをえない。

岡野によると、かつての日本にはそうした「大いなる何か」への畏敬の念があった、しかし現在そのような「つながり」の感覚は失いつつあり、その感覚から創造された物語(神話)も喪失しつつある(2)。戦後の日本は全体主義への反省から科学的合理主義によって「つながり」を教えてくれる神話という物語を消す方向に動いてきた。科学主義は神話をおとぎ話に貶め、「大いなる何か」への畏敬の念は「目に見えないものなど存在しない」という物質還元主義-すべてはモノである-の前に屈してしまった。


つながりをなくしたわたしたちに残るものとは…

岡野は述べる。
 
 「すべてはモノにすぎないのなら、すべては価値も意味もない。意味も価値もないものに、善悪の区別があるわけがない。そして、意味も価値も倫理も成り立たない世界に、私・エゴだけは生きていて・・・」(2)
 
人生に意味がなくただ生きているのだとすれば、せめて自分の快楽だけに生きて行くという価値観が正当化される。そして、「自分の人生は自分のもので、自分のためにある」(2)というニヒリズムとエゴイズムを内包した個人主義が創出されることになり、今日の「人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」「なぜ人を殺してはいけないの」といった自己中心・他者不在の価値観を創出することになる。現代とは、命は与えられたものであり、「「私の勝手」ではないものがある。」(2)という「つながりコスモロジー」を喪失した時代であるといえる。


狭く過剰な「横のつながり」

岡野はトランスパーソナル心理学の立場から主に「縦」の軸のつながりについて論じているが、筆者はそこにもうひとつの軸を考察したい。つながりにはもう一方の「横」の軸が存在する。それは家族、友人、師弟など、現在自分が生きている環境を構成する人間関係であり、このつながりは「縦」の軸の垂直・時間・歴史的関係に対して、水平・空間・現在的関係性といえる。しかし、相次ぐ若者による事件の報道などを通して見る限り、現代における横のつながりは極めて狭く、閉塞した関係であると言わざるをえない。

筆者の感覚では、現代の若者は同じ世代の友人としか交流を深めようとせず、年長者とのコミュニケーションを避ける傾向がある。そしてSNSやLINEなどのインターネットによるコミュニケーションツールが、狭い友人関係による閉塞した世界の構築をさらに加速させているように思える。閉塞した世界は、閉塞しているが故に排他的であり、それ故、内側には濃密な関係を他者に要求する。LINEの返信が来ないことを理由にトラブルが生まれたり、LINEのグループ内でいじめが行われるなどの事例は珍しいことではなくなった。このような状況を鑑みるに現代、特に若者の間においては縦のつながりが忘却されつつあるのに対し、横のつながりにおいては、むしろ錯綜するほどに過剰なものである現状が見えてくる。


「つながり」の喪失による実存不安

筆者が思うに人間が存在するということは、正確に表現するならば、縦軸=垂直・時間・歴史的関係と、横軸=水平・空間・現在的関係の交点に存在する、ということである。LINEの返信が来ないことに不安を抱き、常に誰かとつながっていなければ不安に襲われる。そのような事態に陥っているのは、それが「縦軸」のない「横軸」のみの世界の上で、自分の場所(交点)を見失い、自分が存在していることへの不安(実存不安)に陥っているからではなかろうか。ただ無意味に現在という瞬間に、社会に、投企されている状態の中で、横のつながりのみがリアルであり、過剰なまでの関係になってしまっているのではないかと推測する。

近代社会は自由意思・個の尊重といった概念を構築した。しかしそれは同時に、個を超えた大いなるものとの、縦のつながりの喪失であり、人間が生きる上での意味付け・指針の喪失であった。そのような喪失の時代で人間は、意味ある存在として生き、悔い無き死を迎えられるのだろうか。人生が無意味であることが生きがいの喪失につながることは明白である。トランスパーソナル心理学の論客・諸富祥彦は「人生の無意味」が深刻な「スピリチュアルペイン」を引き起こすと指摘している(3)


神話=「大きな物語」の再建

人間は完全な個人ではいられない。キリスト教学者・小田垣雅也は「自分の生死の意味を支える、絶対的な価値の体系・物語を求めざるをえなくなる」と述べている(4)。

縦の「つながり」を伝える現代の神話=「大きな物語」の再建は、横のつながりにおいても健全な位置を発見し、人間性を回復する一助になるのではないか。その具体的な手引きとして、トランスパーソナル心理学が示す人間観、死生観、コスモロジーが参考になるだろう。コロナ禍にあって、最期の別れすら容易ではなくなった今こそ「つながり」の神話が必要なのではないか。


参考資料

(1)岡野守也『トランスパーソナル心理学』2000、青土社
(2)岡野守也『コスモロジーの創造』2000年、法蔵館
(3)諸富祥彦『人生に意味はあるか』2005年、講談社現代新書
(4)小田垣雅也『現代のキリスト教』1996年、講談社学術文庫


ライター 渡邉 昇

記事掲載日:2021/04/27

図解 世界5大神話入門

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