なんとなしに今日も明日も明後日も普通にやってくるものと思っていると、突如として来訪者が姿を現し風景は一転する。文字通りの来客から、神、祖霊、死者と、来訪者は様々な形をとって非日常的な空間を作り上げてる。そして今、世界は招かざる来訪者による「非日常」が続く。
コロナ禍仕様に変化した握手会
コロナ禍にあって祭りやイベントは自粛・規制を強いられているが、アイドル業界では今やおなじみの「握手会」の代替イベントとして「ミーグリ」なるイベントが開催されているようだ。「オンラインミート&グリート」の略で、スマホやPCなどの画面越しに、オンラインでアイドルとファンが会話をするというもの。先日家族がこの「ミーグリ」に参加するということで、筆者は居間を追い出され、イベント終了まで隣室で待機する羽目となった。オンラインとはいえメディアで活躍中のアイドルが我が家を訪問するわけである。オンラインなのだから見学できるのかと思えば、参加者以外部屋に立ち入り禁止だそうで、録音録画などの行為はすべて禁止。確かに第三者の立ち入り行為が禁止なのは当然のことで、コンサート、イベント会場にチケットを持たず無断で侵入する犯罪行為と同様である。つまりイベントの時間内におけるその部屋は、第三者禁制の聖域、結界と化すのである。
足跡、騒音はもちろんご法度であるが、ドアが閉まった個室にあっても、その時間が終わるまでは不思議な緊張感が場を支配した。何がどう展開されているのか想像もつかないので、なんとも座りの悪いひとときである。数刻後に終了の合図が入った。ほっとする瞬間だ。息を潜めていた筆者も居間に戻り、いつもの日常が帰ってきた。テーブルの上にはスマホスタンドやらマイク付きイヤホンやらが散乱している。
ミーグリで思い出した昔懐かしい来客
どこかで見たような光景である。子供の頃、来客が訪れた日のあの空気であった。いつものように学校から帰ると、知らない靴が置いてあるり、いつも開いている居間の扉が閉まっている。母親がそっと出てきて来客がいることを告げる。途端に緊張が走る。冷蔵庫目当てにキッチンに行けず真っ直ぐ部屋に向かう。なんとなく落ち着かない。大きな音を立てるのは憚られる。自分の家なのにこちらが余所者になった気分だ。事実その通りで、来客のいる空間は日常が反転した非日常の空間なのだ。家は家であって家ではない。やがて来客は去り、日常に戻る。家が家に戻る。なんともいえない解放感が身を包む。居間には普段出されることのない湯呑み茶碗と何やら高価そうなお茶菓子が置いてある。非日常の痕跡である。
来訪者 マレビト
来客、来訪者は異界からの使者である。無下に扱うわけにはいかない。「お客さま」は偉いのだ。これに誠意をもってもてなすのが礼儀というものである。その来訪者の極みが神々であり、祖霊である。折口信夫(1887〜1953)はこのような異界からの来訪者を「マレビト」と呼んだ。
盆や正月も本来はマレビトを迎える祭祀であった。正月は歳神や、祖霊をお迎えし、もてなすことでその年の安寧を願う。盆では(地方によって異なるが)寺で提灯に火を着けて家に持ち帰る。この火にマレビト(祖霊)が宿っており、火は仏壇に灯され、祖霊は懐かしい家、土地でくつろぐ数日を送る。そして、歳神も祖霊も数日のもてなしを受けたあとお帰り頂くのである。
死という非日常のマレビト
日常の中の非日常といえば「死」である。普通の家に最もマレビト(来客)が集まる日は通夜、葬儀の日であろう。親族、隣人、知人友人とマレビトだらけでもてなす側は休む間もない。子供にすれば見たこともない異常な光景が広がることになる。死者は臨終を迎えると、その日のうちに通夜が行われ、最後の一夜を家族と過ごす。遺族にすれば家族だった者が、一転して死の世界からのマレビトになる。もてなし、悲しみ、今後の生活への不安、様々な思いが錯綜する非日常の空間。葬儀が終わり、マレビトを墓に葬り、家に戻るまで、つまりマレビトが去るまで日常は戻ってこないのだ。
招かれざるマレビト
招かざるマレビトもいる。自然災害などはその最たるものだろう。現代でもそうだが、地震、台風、干ばつ…古来より自然がもたらす災厄に対して人間は無力であった。人々は突如訪れる招かざるマレビトが去り行くまで、お供えをし、祈り、もてなした。一方で自然の強大な力は、実り、恵みをもたらしてくれる。来訪者が帰り際に子供にくれる小遣いや、思いもかけぬおやつに変わるお茶菓子のように。
近年はそういった光景も見ることは少なくなった。葬儀の簡易化、葬儀離れが進む昨今の風潮に輪をかけて、新型コロナウイルスが来客の訪問を困難にしてしまった。来客は消え、歳神や祖霊の影も薄くなり、代わってテレワークの推奨、オンラインによる様々なイベント、レッスンなどによる、新たな形のマレビトが非日常空間を現出していくようになったのである。ミーグリもまた「マレビト」が自宅に来訪する、日常の中に非日常が現出する場なのだ。
コロナ禍という非日常
ここまで様々なマレビトが登場したが、現在我々は新型コロナウイルスという招かざるマレビトの訪問を受け、長きに渡る非日常空間に生きている。コロナをもてなす気にはなれないが、下手な扱いができないことも現実である。結局のところ終息を待つ以外にない。
昭和の漫画などによく登場した「逆さ箒」という呪い(まじない)がある。箒(ほうき)を逆さに立て、手ぬぐいをかけて、客がいる部屋の向かい側に立てておくと、嫌な客、早く帰ってほしい客を追い出すことができるという。その意味は諸説あってはっきりしないが、ゴミを掃いて捨てる箒の役目にかけたものだろう。箒に宿る付喪神に願掛けする意味もあるのかもしれない。客に対して帰れとは中々言えないものである。これも異界からの訪問者・マレビトに対する畏れの心性が根付いているからかもしれない。最前線に立っている人を除けば、その日その時まで待つしかないのだ。
日常の大切さ
若者を中心にコロナに対する危機感が薄れているようである。だが本来死ななくてもよかった人たちが死を迎えている事実。これに慣れてしまい、これが日常になってはならない。コロナはあくまで招かざるマレビトでなくてはならないのだ。来訪者が去ったあとの日常は、当たり前の生活の大切を知る瞬間でもある。マレビトは日々の尊さを教えてくれる存在でもあるのだ。当たり前を噛みしめる日の到来を祈りたい。
参考資料
菅野覚明「神道の逆襲」講談社現代新書(2001)