密教系や浄土系寺院などに入ると、きらびやかに飾り付けられた本堂・本尊を見ることができる。大型寺院ともなると過剰に感じるほど豪奢な飾り付けであることも珍しくない。一切の欲をへの執着を断ち切る仏教の教えと矛盾しているようであるが、美しく整えるという行為は必ずしも虚栄心からくるものではない。それは故人の、人生最後の姿を美しく飾り付けて見送ることを見てもわかるはずである。
「信は荘厳なり」とは
仏教の慣用句に「信は荘厳より起こる」「信は荘厳なり」などというものがある。荘厳とは本堂や仏壇の中を美しく飾ることで「仏壇を荘厳する」などと言う。この言葉は美しく整然となっているところに信仰心は生まれるものだ、といった意味である。信仰にも見た目や形式が大切であり、内容は形式から導き出されることがある。寺院や神社に足を運び、境内や建物、仏像などが美しく飾られている光景に感動し、そこから信仰心が生まれることは多々あることだ。例えば浄土系寺院の本堂は極楽浄土を模した美しい飾り付けがされている。これが荘厳である。我々凡人はまずそのきらびやかな姿に惹かれる。その中心に鎮座する本尊・阿弥陀如来は宇宙の真理そのものであり、本来は姿形を持たない存在である。しかしそれでは凡人には理解しにくいため、わかりやすい姿になったのが仏像・仏画としての阿弥陀如来なのである。信仰はまず形式から始まり、やがて形式の奥にある真理に辿り着く。形式は真理を悟るための方便である。一切の虚飾を剥ぎ取り、見かけに囚われない真理を看破するのが仏教の本義であるが、まずは神仏の美しさに感動することが信仰への入口となる。
阿弥陀経
浄土三部経のひとつ「仏説阿弥陀経」には極楽浄土のきらびやかな光景が描写されている、極楽浄土を荘厳する経典である。阿弥陀経によると、極楽浄土は金・銀・瑠璃・水晶の4種の宝石からできている石垣や網がめぐらされ、さらに3種の宝石を加えて出来た池や木が生え、天井の楽器が演奏され、大地は黄金色で麗しい光景が広がるなどと説く。
これだけ読めばかなり世俗的な表現にも感じられるが、それは現代人の感性だろう。阿弥陀経は三部経の中で最も短く「小経」と呼ばれており、最もよく読誦されてきた。古の人たちは、阿弥陀経に描かれている極楽荘厳の光景に触れ、極楽に憧れ、いずれ往生するために心身を汚さずに生きていこうとしたのである。難解な哲学や、虚飾を捨て無の境地を説くような経典よりもわかりやすく信心を得やすい。荘厳の意義を体現している経典だといえるだろう。
簡素化した葬儀 直葬
荘厳、つまり「美しく飾り付ける」思想は、葬儀における遺体に対する態度にも根付いているのではないだろうか。先日筆者は「直葬」に立ち会う経験を得た。筆者が参列した直葬は通夜や告別式を行うことなく、ほとんど身内だけで火葬のみを済ませる形式であった。僧侶による読経もないので、費用も時間もかからず故人を送り出すことができる。葬儀の簡素化が著しい近年においてますます増えていく形式だと思われる。筆者は正直、直葬に良い印象は持っていなかった。簡素化にも程があると思ったのである。宗教学者・山折哲雄も直葬を単なる「死体処理」だと批判しているが、「直葬」という響きからしていかにも事務的な印象を与える。従来の葬儀に比べると、淡々と進められ、見た目はあまりよろしくはない葬儀形式ではある。しかし、故人が生前望んだ形であるなら尊重するべきであるし、経済的負担もあるだろう。現代において直葬にせざるをえない事情を頭ごなしに否定するわけにはいかない。
それに実際には直葬といっても最後の別れの場面は、やはり特別な心情にかられるものだ。家族は納棺された故人の周りに溢れんばかりの花を敷き詰め、故人の好きだった物を置いたりする。「良い顔してる」「眠っているようだ」と話す家族・親族の脳裏には在りし日の故人の姿が浮かび、最後の別れを惜しむ。簡素化された時間であっても、決して手抜きではなく、家族と故人の温かな触れ合いの時間が生まれる。その時間を彩るのが、清潔にされた遺体と、その周りを囲む花や副葬品であり、遺体を美しく飾ることの大切さを実感した。筆者はそこに荘厳の思想を見たのである。その意味では山折の「死体処理」との批判は一面的であるといわざるをえない。
葬儀に見出す荘厳の心
簡素化された葬儀においても、遺体を美しく飾り、故人の極楽往生を願う気持ちは変わらない。それは虚栄心とは真逆の真心の表れであり、 まさに荘厳の思想と同じである。様々な装飾を帯びて祭祀に近いものとなっていたものから、簡易な形に変わりつつある葬儀であるが、その根底には荘厳の心が見えてくるのである。
参考資料
■中村元・紀野一義・早島鏡正「浄土三部経〈下〉観無量寿経・阿弥陀経 改訳版」 岩波文庫(1990)