近年、日本の仏教は何かと批判の対象にされやすい。葬儀の簡略化や墓じまいなど寺離れが加速している。そうした風潮に葬儀や墓の大切を説くと、日本の仏教はブッダの説いた仏教ではない偽物の仏教であると反論されることがある。歴史的には否定できないものがあるが、それは仏教の本質なのだろうか。
何が本質なのか
昨年の「M-1グランプリ2020」で優勝、16代目王者となったお笑いコンビ・マヂカルラブリー(野田クリスタル・村上)のネタについて論争が起こっている。マヂカルラブリーが決勝で披露したネタは、野田がほぼ喋ることのないジェスチャーのみのボケに、村上がツッコミをするという喋り芸としての漫才とはかけ離れたものであった。これは「漫才」なのか、「コント」ではないのか。「漫才」の定義とは何なのか。賛否両論、喧々諤々といった状況である。お笑いに暗い筆者には漫才とは何かを論じることはできないが、正統・邪道の違いはどこにあるのかとは思う。
日本仏教は邪道か
邪道といえば日本仏教などその極みといえるかもしれない。日本仏教は常に一定の批判を浴びてきた。「葬式仏教」、「肉食妻帯」、金儲け主義や性的な不祥事。「生臭坊主」「坊主丸儲け」などは既存の仏教に対する悪口の定番である。そうした僧侶の堕落ぶりについて、元々日本仏教はブッダ本来の教えとはかけ離れていると言われ続けてきた。
現代に伝わっている仏教は大きく分けて、東南アジア方面の上座部(小乗)仏教と中国やチベット、そして日本に伝来した大乗仏教がある。源流の原始仏教に近いのは上座部の方で、日本仏教の現状に対するアンチテーゼからか、近年国内でも上座部仏教の人気が高まっている。
出家、瞑想、戒律といったストイックでシンプルな上座部と比べ、大乗仏教は密教などの一部を除き、在家者の平易な行・道を説く。そして阿弥陀仏や不動明王などブッダ以外の様々な諸仏信仰が生まれた。密教の大日如来、浄土系の阿弥陀仏、地蔵や観音への信仰など、ブッダその人への崇敬はかなり薄まっている印象を受ける。また「法華経」「華厳経」「無量寿経」といった大乗諸経典は明らかにブッダ入滅後に編纂されたものである。こうしたことから、大乗仏教は仏教ではないという「大乗非仏論」も生まれた。その先駆者とされる江戸時代の学者・富永仲基(1715〜46)は従来の思想に後の思想が加えられていく「加上説」を唱え、現代の思想史研究の先駆ともなった。もっとも仲基は大乗仏教は発展した仏教であるということが言いたいのであって、大乗仏教が偽物だというわけではない。浄土真宗僧侶・村上専精(1851〜1929)は、上座部仏教は根本的仏教、大乗仏教は「開発的仏教」であるとし「仏説」ではなくても「仏意」であるとした。
空手と仏教
やや過激なことを言ってしまえば、そこまでブッダにこだわる必要があるだろうか。例えば空手である。空手といっても伝統派、フルコンタクト派、沖縄古流とあり、それらが更に細分化されている。空手は中国武術が、沖縄(琉球)に渡り沖縄古流武術「唐手」として独自に発展した。この唐手を松濤館空手創始者・船越義珍(1868〜1957)が本土に持ち込み「空手」として普及に努めた。これが現代の空手の主流であり東京五輪の正式種目となった伝統派空手である。伝統派は直接打撃を与えてはいけない、いわゆる「寸止め」ルールが採用されている。これに対して極真会館総裁・大山倍達(1923〜1994)が直接打撃制を採用し一方の雄となったのがフルコンタクト派である。一時期ブームになったK-1もこの流れに位置する。
沖縄古流、伝統、フルコンタクト、彼らが空手着を脱いで技を披露したなら、門外漢にはまるで違う競技に見えるだろう。空手は東京五輪で正式種目になったが、それまでの道のりは険しかった。それでも次のパリ五輪では外されてしまった。テコンドーに比べてロビー活動が下手というのもあるが、長らく採用されなかったのは流派が細分化して統一されていないことが一因である。
さらに伝統派には防具を着用する流派があり、フルコンタクト派からは寝技や関節技まで導入した着衣総合格闘技と言える流派まで派生した。もはやどこの何が本当の空手かはわからない。しかしどの流派にもそれぞれの魅力があり、空手にはこれからも進化する大きな可能性を秘めた武道であるともいえるのだ。
大事なことはただ一つ
仏教でいえば、 原始仏教に当たるのは沖縄古流空手ということになる。船越義珍が大乗仏教の理論を確立した龍樹(150〜250)に、大山倍達が、難解な哲学(奈良仏教)や限られた者だけが荒行を積んで修めることのできる仏教(密教)に異を唱え、念仏のみという革命を起こした法然(1133〜1212)に例えることができるだろう。大山の極真空手と沖縄古流空手が似ても似つかないように、原始仏教と浄土仏教はかけ離れている。それでも空手は空手であり他の武道・格闘技でなく、仏教は仏教であって他の宗教ではない。
要は根本を忘れなければよいのではないか。空手の根本は(異論・反論はあるだろうが)拳足の打撃で倒すことである。投げ技や関節技を導入してもそれは打撃で仕留めるための手段である。そして仏教の根本は悟りと慈悲だと思われる。密教の様々な儀式や法具、浄土系の念仏や日蓮の題目はブッダの時代にはなかったものであるし、ブッダが説いたものではない。しかし日本仏教の先哲たちの根本にブッダが存在していることは間違いない。
これからの日本仏教
ひたすら念仏や題目を唱えたり、印を結び真言を唱える日本仏教は、本来の仏教から見れば邪道といえるかもしれない。かつて極真空手は邪道空手、ケンカ空手と批判され、伝統派も寸止め空手、ダンス空手と揶揄された。しかし現代の若い世代の空手家たちはそのような狭い了見を持たず、一流選手同士が互いに認め合い、自分たちにない長所を吸収する動きが活発化している。You Tubeにはそうしたコラボ企画が目白押しで、かつての状況を知る世代としては隔世の感がある。仏教もまたこだわりを捨てて「加上」「開発」していくべきである。それが大乗仏教の本質なら、現代においてもブッダの教えを進化・深化していく過程にあるはずである。現実には僧侶の怠慢、堕落があり、加上・開発どころではないが、一方で仏教を再興しようとする若い僧侶たちも少なくない。大乗の伝統を受け継ぐ日本仏教に誇りを持って発展していくことを願いたい。
参考資料
■末木文美士「日本仏教史」新潮文庫(1996)
■末木文美士「比較思想から見た日本仏教」山喜房佛書林(2017)
■釈徹宗「天才 富永仲基」新潮新書(2020)