人は死を前にして本性が出ると言われる。「A級戦犯」と呼ばれる7人の死に様とはどのようなものだったのか。なお「戦犯」という呼称、いわゆる「東京裁判」の正当性などの歴史問題については今に至るまで論争が絶えず、見解を述べるのは筆者の手に余る。本稿では死刑執行を前にした人間の心について考えたい。
「A級戦犯」の死刑は、12月23日に巣鴨プリズンで執行された
1948年12月23日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は敗戦国日本の戦争に加担したとする「戦犯」を収容した「巣鴨プリズン」にて、便宜上「A級」と区分けした7人の指導者層の死刑を執行した。時の皇太子殿下(現在の上皇陛下)の誕生日を選んだのは偶然ではないだろう。この日、東條英機(1884〜1948)、広田弘毅(1878〜1948)、土肥原賢ニ(1883〜1948)ら7人の「A級戦犯」が絞首刑に処された。その最期を看取った教誨師が浄土真宗本願寺派僧侶・花山信勝(1898〜1995)である。花山は「BC戦犯」27人の処刑も看取っている。
浄土真宗に帰依した東條英機
第40代総理大臣 東條英機は花山に影響を受け、浄土真宗に帰依した。その後は独房で「浄土三部経」などを読み念仏をする毎日となった。執行前日、明日の執行を告げられた東條は「死ぬ時期は、いい時期だと思います」と述べ、国民に対する謝罪、「平和」の捨て石となり得ること、陛下に累を及ばさないことなどを告げた。そして阿弥陀仏に帰依したことで、「喜んで死んでいける」と語っている。
東條英機、土肥原賢ニ、武藤章、松井石根の最期
執行当日。東條は土肥原、武藤章(1892〜1948)、松井石根(1878〜1948)と共に連行された。東條は希望した日本酒ではなかったが、ブドウ酒を一口飲み、ご機嫌だったという。4人は万歳三唱をして、監視の将校たちに「ご苦労さん、ありがとう」と言葉をかけた。将校たちは歩みよって握手を交わしたという。そして彼らは、にこにこ微笑みながら刑場に消えた。花山が仏間に戻る間に刑は執行された。執行の直前まで「南無阿弥陀仏」の念仏が絶えなかったとのことである。
広田弘毅、板垣征四郎、木村兵太郎の最期
花山が仏間に戻ると次の3人が連行されてきた。広田弘毅、板垣征四郎(1885 〜1948)、木村兵太郎(1888〜1948)である。第32代総理大臣 広田は他の受刑者の中にあって異質な印象を受ける。実家は禅宗で、広田本人も死刑を前にある境地に達していたようである。花山との面談でも「何もありません、自然に生き、自然に死ぬ」と多くは語っていない。彼らもまた万歳三唱をしたあと、やはりにこにこ笑いながら挨拶をして刑場に向かった。
静謐な死
彼らの死に共通することはその静謐さである。小林広忠は凶悪殺人犯の執行の様子と比較して、「その死に方は悠揚としており、りっぱである。いや、りっぱすぎるといっていい。」「彼らの死に様は、あまりに静謐すぎる」と驚嘆の思いを込めて書いている。
無様な死
小林は凶悪犯3人の最期の様子を挙げている。女性8人の命を乱暴した上に殺害した死刑囚(1976年執行)は、執行間際までは平静を装っていたが、執行時にはへたりこみ刑務官が両脇を抱えて刑場へ向かったという。
一家四人を殺害し金を盗んだ死刑囚(1955年執行)は刑場の仏間では大人しかったが目かくしと手錠をかけられると、「助けてくれ!」と激しく叫んだ。
親子3人と男性2人を刺殺した死刑囚(1982年執行)は最後まで謝罪の言葉を口にせず、大暴れをした挙げ句、格闘のすえ執行された。これらのエピソードが事実ならなんとも無様であり、被害者の無念を考えれば相応の最期とはいえる。
死刑という死の迎え方
しかし、無様と書いたが彼らが特別ではない。死刑執行を前にすれば普通の人間のほとんどは無様になるだろう。死刑は最も恐ろしい死の迎え方である。病死の場合は大抵、闘病の末のゴールである。死の恐怖より病の苦痛が上回ると思われ、あるいは死は安らかな救いですらあるだろう。意識が混濁して生死の区別もつかない事もある。いずれにしろ病死は斬新的な死であるといえる。自殺も覚悟ができているし、戦場に至ってはまともな精神状態ではなく、ある意味「ハイ」になっているといえる。
これらに対して死刑は生に執着するごく普通の精神状態の人間がある日突然連行され、いくつかの次第を経て首に縄がかかる。刑は淡々と執行される。筆者がその立場ならやはり、自分の手にかかった被害者の恐怖と無念など棚に上げて、へたりこみ泣き叫ぶに違いない。それが普通の人間である。では「戦犯」はなぜ静謐を保てたのか。
誇りと気高さ
彼らは軍人であり政治家であった。明治になり身分・階級としての武士は滅んだが、当時の軍人・政治家が武士階級に相当する。「戦犯」とされた軍人・政治家の潔さは武士道のそれである。とはいえ、「武士道とは死ぬことと見つけたり」などというが死が怖くないはずがない。怖いからこそ、武士はそれを乗り超える境地を目指したのである。
彼らの死に様は、フランス革命によって市民たちに処刑された、フランス王妃 マリー・アントワネット(1755〜93)の最期を連想させる。彼女はギロチンを目の前にしても凛とした気高さを保っていたという。最期の言葉は、ギロチン台を登る階段で足を踏んでしまった執行人への「お許しくださいね、ムッシュウ。わざとではありませんのよ」だったと言われる。彼女はギロチン台の前まで来ると、自分で頭を振り帽子を落としたとも言われる。
白装束に身を包み超然と歩く王妃マリーと、暴徒と化した市民の対比は、事の善悪とは別に「誇り」や「気高さ」の有無を感じさせる。死を恐れるのは人間の根っこであるが、死を克服するのは人間の高みである。死を前に超然とした態度を示せるのは「誇り」「気高さ」を身につける教育を受けた貴族や武士ならではのものだろう。生きるのに精一杯な民草がそれを学ぶには時間も余裕もない。武士や貴族は実用的なモノは何も作り出さないが精神の高みを教えてくれるのである。
石碑に宿る精神
かつての巣鴨プリズンの跡地には現在、サンシャイン60が立っている。そしてサンシャインシティ横の東池袋中央公園の一画、処刑場跡には「永久平和を願って」と刻まれた石碑が建立されており花などが供えられている。花といえば、フランス革命を描いた漫画「ベルサイユのばら」のアニメ主題歌には、名もなき花はただ咲いていればいいが、バラは気高く咲き、美しく散る定めだという内容の歌詞が綴られている。彼らの「罪」についての評価は個々によって異なるだろうが、最大の恐怖を前に凡人には及ばない高い精神性を体現した。若者たちの目には止まらない地味で静かな石碑はその証なのである。
参考資料
■小林広忠「巣鴨プリズン」中公新書(1999)
■花山信勝「平和の発見 巣鴨の生と死の記録」方丈堂出版(2008年度版)