仏教が奉じる仏・神々の中で人気が高いのは、地蔵菩薩、観音菩薩、不動明王、阿弥陀如来といったところだろうか。その中でも1、2を争うのは地蔵菩薩と観音菩薩だろう。どちらも慈悲の仏であり民衆に親しまれてきた。今回は地蔵菩薩に焦点を当てる。
おとぎ話にも登場し、街中のあちこちで見かける地蔵菩薩
地蔵菩薩は「お地蔵さま」「お地蔵さん」として古くから民衆の間で大変親しまれている。錫杖を持ち、子供にも見える柔和な表情が印象的だ。 地蔵は各地の沿道のあちこちに鎮座していて旅人の疲れを癒やしてくれる。「笠じぞう」などのおとぎ話も地蔵への親しみが元になっているのだろう。
菩薩とは仏教においてどんな存在か
仏教では如来、菩薩、明王、天部(神々)という序列がある。如来は悟りを開いた完全なる存在。いわゆる「仏」とは本来は如来を指し、悟りを開いたブッダが「釈迦如来」と言われている。菩薩は如来になるために修行している如来候補生である。釈迦滅後の56億7千万年後にこの世に救いに現れるという弥勒菩薩はその日のために天界のひとつ兜率天(とそつてん)で修行を積んでいるとされる。我々人間より遥かに高い次元とはいえ、依然修行中の身なのである。弥勒は未来仏だが、菩薩とは基本的には悟りを開けない未熟者ではなく、いつでも悟れるのにあえて衆生の近くで手を差し伸べたいと菩薩のままでいるという。完全に悟った如来は我々には遠い存在だが、菩薩とは親しくできる。観音さまやお地蔵さまが菩薩なのは当然である。
六道輪廻と地蔵の関係
仏教では「六道輪廻」を説くが、地蔵は六道を輪廻するすべての魂を救うとされる。六道とは地獄、畜生、餓鬼、修羅、人間、天上の六つの道で、この世のすべての魂は死後もこの道を延々と生まれ変わらなければならない。それぞれの道は各々が生前積んだ業によって決まる。力に走る者は修羅、強欲な者は餓鬼という具合である。では天上はどうなのかというと善人ではあるが、「善」に執着する魂ということだろう。行き過ぎた善は中途半端な悪より始末が悪いことがある。そのような天人は寿命を終えるとき、地獄の数千倍の苦痛が襲いかかるとされている。善も悪も超越することを仏教では「解脱」と呼び、釈迦はこの輪廻からの悟りを開き解脱することを説いた。地蔵はこの六道のすべてに降り立ち、苦しむ衆生を救うとされる。「六地蔵」と呼ばれる六体一組の地蔵の由来はこれである。「傘じぞう」の地蔵の数も伝承によって異なるものの、単体ということはほとんどなく六地蔵が原型にあると思われる。
賽の河原で子どもたちを救う地蔵菩薩
地蔵は救いと慈悲の菩薩であり、地蔵信仰には子を亡くした親の切なる思いが込められている。日本の各地には「水子地蔵」「子守地蔵」といったものが祀られているが、これは賽の河原と子供たちを描いた「地蔵和讃」が流布した結果ではないだろうか。子供が親に先立って死ぬことは逆縁の不幸として罪とされ、三途の川の辺りにある賽の河原で石を積む罰を与えられる。積み終わる頃には鬼がやってきて崩してしまう。子供たちは泣きながらまた積み始めるのである。そんな子供たちの前に地蔵菩薩が現れ、救いの手で抱きしめてくれるという。
西院河原地蔵和讃とは
仏典には求められない民間伝承であるが、父こいし 母こいしと泣く子たちの様を描く「西院河原地蔵和讃」は、日本浄土教の先駆者・空也(903〜972)作と伝えられる。
未だ歩まぬみどり子を
錫杖の柄にとりつかせ
忍辱慈悲のおん肌に
抱き抱えて撫でさすり
哀れみ給うぞ有難き
南無延命地蔵菩薩
子に先立たれることは身を切られる思いだろう。そして子を失った孤独以上に、もう抱きしめてあげられず、死出の度にひとりで行かせることの不憫さが身を覆う。恐山には賽の河原があり、積んだ石が無数にある。子供の代わりに親が積んであげた跡である。あとは地蔵菩薩の慈悲にすがる以外にない。そこには科学では割り切れないものが確かに存在する。
大地の強さとぬくもり
地蔵の救いと慈悲はどこに由来するのだろうか。「地蔵」は大地の母、蔵との意味である。インドで「クシティガルバ」といい、大地の無限のエネルギーを蔵しているとされる。属性としては大地母神(ガイア)を連想させ、その力は膨大である。地蔵は強いのである。力あればこそ、地獄や餓鬼に降りたち、慈悲の光を照らすことができる。力無き優しさは無力である。地蔵は優しいだけで弱い存在ではない。だから子を亡くした親たちはその頼もしさにすがるのである。
大地母神といえば、地蔵は元々女性であったとする経典がある。「地蔵菩薩本願経」には「婆羅門の女人」が地獄に堕ちた母を救うために、六道を輪廻しその道々で苦しんでいる人々を救うと願を立てた。そして母は地獄を逃れることができたという。この女人こそが地蔵菩薩であると、この経は説いている。我が子を代わりに抱きしめてくれる地蔵のぬくもりは母性のぬくもりでもあった。
すがる思い
元々難解な哲学に近かった仏教は大乗仏教となり様々な仏や神々が説かれるようになった。虚空蔵菩薩は無限の叡智を、不動明王は煩悩や悪の心を滅する力を表している。そして観音菩薩と地蔵菩薩は慈悲と救いの象徴である。観音さまが仰ぎ見る存在なら、お地蔵さまは今ここにいる存在である。文明がどれほど進歩しても、地蔵の慈悲にすがる人たちは絶えない。近くのお地蔵さまを見かけたら、気軽にかつ真摯に手を合わせてみてはいかがだろうか。