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日本人と唯一神教との相性は?日本人と唯一神教との微妙な関係

日本はキリスト教が普及しなかった最大の先進国とされており、信徒数は総人口の1パーセントにも満たない。そもそも唯一神教は日本人には合わないと言われている。しかし、日本で最大の信徒数を誇る宗教は唯一神教に近い仕組みを持つ宗派なのである。


自然豊かな日本 災害大国の日本 日本人の宗教観の形成

日本は四季折々の自然の恵みに育まれた土地である。「豊葦原の瑞穂の国」と呼ばれた水の清らかさが、清明心(きよきあかきこころ)など魂の清らかさを重んじる概念を生んだと言ってもよい。一方で豊かな自然に囲まれるということは、その怒りに見舞われることも多々ある。日本が地震大国と言われる事実を我々は何度も痛感してきた。大自然の恵みと怒りを前に我々は畏敬の念を抱かずにはいられない。我々の祖先も人智の及ばぬ大いなる存在にひたすら祈った。水、火、地・・・人間の手が及ぶものは何ひとつない。人々は天地自然のあらゆるものに神の存在を見出し、畏れ崇めた。これが八百万の神々となる。
八百万の神々は自然のあらゆる所にましましている。つまり不可視の存在であった。神社の本殿には鏡や剣などが祀られている。これらは姿なき神が宿る依代である。その姿なき神の国にそこに仏教が伝来した。日本人が大きなカルチャーショックを与えたのは、仏像という可視化された神仏の姿と、緻密な教義体系である。


仏教と神道は互いの過不足を補完しあい神仏習合していった

仏教の影響により、素朴な自然崇拝が「神道」として確立されていく。日本人の心性に深く根付いた畏敬の念が「神道」という宗教形態となったのは仏教の影響によるところが大きい。仏教は仏教で排斥されることなく、神道と融和していく。こうして互いに補完し合い、やがて神仏習合となっていった。神道・仏教は渾然一体となり、日本人の精神性、宗教観を形成していった。


唯一神教の排他性

唯一神教とは文字通り唯一絶対の神を信仰する宗教形態である。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が挙げられる。唯一神は天地万物の創造主であり、全知全能・絶対的存在である。砂漠の過酷において自然は厳しく、自分たちを導いてくれる存在が必要だった。唯一絶対である神の教えは唯一絶対である。当たり前のようだが、仏教と習合、融和してきた日本人はこのような厳格な価値観は持っていない。

キリスト教の宣教師はこの絶対的価値観を持って来日した。そしてその地にはキリスト教以外の宗教、習俗が存在していた。キリスト教という絶対的価値と異なる教えにとっては、それらは邪教であり排すべき存在である。彼らに扇動されたキリシタンは寺社を焼き、仏像や墓石を破壊し、僧侶を殺害するなどした。キリスト教の宣教師には苛烈な拷問、処刑に屈しない殉教のイメージがあるが、布教が禁止された背景にはこうした排他的な姿勢にも一因はある。

長崎県の住職・会川天心氏は、こうした歴史の事実に触れず、キリシタン迫害史だけを強調することは、歴史の隠蔽改竄に加担することになると指摘している(長崎新聞 平成26年12月5日)。


日本で最大信徒数を誇る浄土真宗は日本的唯一神教

このような排他的・独善的な唯一神教は、融和的な日本人に合わないのではないかと思われる。しかし、現代に至るまで日本最大の信徒数を擁する宗教(派)は、親鸞(1173〜1263)が開いた浄土真宗である。そして浄土真宗は唯一神教といってもよい構造である。
元々浄土系仏教は極楽浄土というキリスト教の天国に近い他世界を宗派名に冠する。そして「弥陀一仏」と言い、阿弥陀仏のみを崇拝する。阿弥陀仏は絶対的存在なのである。真宗は他の浄土系仏教からさらに徹底していく。偶像崇拝、呪い、占いなどは一切認めず、真宗寺院には御朱印やお守りすら置いてない、まさに阿弥陀仏のみの唯一神教である(偶像崇拝と阿弥陀仏の本尊について後述)。


浄土真宗とキリスト教(プロテスタント)との類似性

この徹底さはプロテスタントとの類似が指摘される。カトリックではマリア信仰、聖人崇拝、天使の存在が説かれているが、マルティン・ルター(1483〜1546)は弥陀一仏のように、聖書のみを信じよと説いた。またカトリックでは教皇や神父の権威は平信徒より上である。信徒は神に対して、神父や教会にとりなしてもらうのである。ルターはこうしたカトリックの形式を否定した。信徒はそれぞれが直接唯一神と向き合え、牧師と信徒の間に上下関係は無い(万人祭司)。浄土真宗も「在家仏教」を名乗り、僧侶と門徒の間に少なくとも建前上は格差はないとされている。イエズス会の宣教師 フランシスコ・カブラル(1533〜1609)やアレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1539〜1606)も、真宗を「ルターの宗派と似ている」と報告している。


それでも浄土真宗とキリスト教(プロテスタント)は決定的に違う

こうしてみると形が異なるだけで、日本にもキリスト教(プロテスタント)に似ている唯一神教が根付いているようにみえる。しかし浄土真宗とキリスト教は決定的に違う。親鸞は「無上仏ともうすは かたちもなくまします」(末燈鈔)と説いた。真宗における阿弥陀仏とは、唯一神そのものではない。仏教における宇宙の摂理が、無知無学な衆生にわかりやすく仮の姿として顕現したとする姿が阿弥陀仏なのである。つまり方便としての仏であり、人間に直接語りかけたり、救いや罰を与えたりする実体としての神(GOD)でない。神道の神は実体がなく、仏教においては実体は存在しない「空」を説く。しかし救いを求める衆生には絶対的な存在がある方がよい。日本人には無かった頼れる存在を親鸞は仮の方便として用いたのである。唯一神そのものではないが、絶対的な存在への希求は日本人にもあったのである。


見え隠れする唯一神

唯一神教は独善的ではあるが、時にはそのような強引さに惹かれることもある。何かに頼りたい、誰かに助けてもらいたいと願うのは人間に共通する弱さだ。大自然の脅威やどうにもならない過酷な運命を前に、唯一神は頼れる神様として必要なのかもしれない。死の淵に立たされた時、何も語らない神様より、「救ってあげよう」と行ってくださる神様の方がいいに決まっている。その一方で日本人の心性には、八百万の神々と仏教的な無常観が存在している。親鸞は人間が持つ共通の弱さと、日本人が育んできた心性をうまく調和したといえる。その教えが日本最大の宗教となっているのは興味深い。また新興宗教は教祖の唯一神的なカリスマ性に依っていることが多い。日本人と唯一神教の間には微妙な関係が見え隠れするのである。


参考資料

■狭間芳樹(2011)「プロテスタンティズムと一向宗 : キリシタン文書に基づく比較研究試論」現代キリスト教思想研究会「アジア・キリスト教・多元性」9号


ライター 渡邉 昇

記事掲載日:2020/09/29

落語とは、俺である。―立川談志 唯一無二の講義録―

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