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大森荘蔵が主張した「立ち現れ一元論」から考える死者との関係性

私たちは大切な人が亡くなり悲嘆に暮れている時、このような言葉を掛け合う事がある。「あの人は私たちの心の中に生きている」この言葉を比喩でもオカルトでもなく哲学的に考察し、文字通りの事実であるとする考え方があるとしたらどう思われるだろうか。


自然科学と一線を画す「立ち現れ一元論」

通常私たちは世界を二元論的に認識して生きている。目の前に置いてある本を見て「本が置いてある」と思う。世界は私たちの主観と、客観的な対象に二分されており、外の世界は私たちとは別に存在する。これは当たり前の感覚だろう。この常識的な見方は素朴実在論といい、自然科学は基本的にはこの認識方法に則って構築されている。しかし哲学者・大森荘蔵(1921〜97)はこの二元論的な世界観を反駁する。そして到達したのが「立ち現れ一元論」である。


「立ち現れ一元論」ーー記憶は映像ではない

記憶について考えてみたい。私たちには記憶というものがある。かつて見た風景、人物、出来事、音楽、また痛みなどの感覚。そうしたものの痕跡、断片が脳に残っており、それらが映像や感覚として、つまり記憶の「像」として蘇ってくると考えられている。脳医学者や生理学者なら、脳には記憶の座があり記憶の痕跡が保存されていると説明だろう。だが、大森はそのような記憶の「像」などは存在しないというのだ。

私たちの心に思い浮かぶ、かつて見たものや聞いたりしたもの。例えば子供の頃に見た東京タワーを思い浮かべるとき、それは東京タワーの記憶が投影された映像ではなく、東京タワー「そのもの」なのだという。大森はこの「そのもの」が直接心に現れる現象を「立ち現れ」と呼ぶ。


覚えていること想像したこと、それこそがそのもの

映像に絞って考えると、記憶の映像を私たちは「何」で見ているのか。大森によると「記憶に浮かんだ風景は眼に見える映像ではない」。東京タワーをその記憶を頼りに絵に描くとする。しかし曖昧すぎて写真や絵画などを参考にして描くように、細部まで覗き込んで描くことはできないだろう。それでもそれなりに絵は完成するが、それは記憶の映像を写生したものでなく、なんとなく残ってる東京タワー「そのもの」を描いたという方が正しいのではないか。

いや、具体的な映像ではなくても、何かの痕跡、残滓、残り香のようなものが、脳や心に刻み込まれているではないか。大森はこれも否定する。


「立ち現れ一元論」ーー記憶は写真ではない

大森は写真を例に取って説明する。ここにAさんの写真があるとする。写真とはAさんを写し取ったAさんのコピー、Aさんの痕跡であるといえる。そして私たちがそれを「Aさんの写真」であることがわかるのは、Aさんそれ自体を知っているからである。

この「写真」をそのまま、「記憶の痕跡」に変換してみよう。記憶の痕跡がかつての出来事を写し取った写真のようなものだとすれば、私たちはそのAさんの写真=Aさんの記憶痕跡をなぜAさんだとわかるのか。事実わかる。「今思い出しているAさんの、さらに昔の記憶があるからだ」と言いたくなるかもしれない。しかしこれだと、そのさらに昔の・・・と、無限に続いてしまうことになる。そんなことをしなくても、わざわざ写真=痕跡など置かなくても、Aさんそのものが現れていると考えてよいのではないか。記憶とは痕跡でも残り香でもない。それ自体が立ち現れている。大森はそう主張するのである。


立ち現れる死者は死者ではない。その人そのものである。

では、もうこの世にはいないあの人たち。死者が思い浮かばれる時、それは死者の記憶の像ではなく、死者そのものだというのだろうか。そうなのである。私たちの前に立ち現れるあの人は、あの人そのものなのだ。



ーでは死んで久しい亡友を思い出すときもその人をじかに思い出しているのか、と問われよう。私はその通りであると思う。生前の友人のそのありし日のままをじかに思い出しているのである。

その友人は今は生きては存在しない。しかし生前の友人は今なおじかに私の思い出にあらわれるのである。その友人を今私の眼や肌でじかに「知覚する」ことはできないが、私は彼をじかに「思い出す」のである。そのとき、彼の影のような「写し」とか「痕跡」とかがあらわれるのではなく、生前の彼がそのままじかにあらわれるのである。

「彼の思い出」がかろうじて今残されているのではなく、「思い出」の中に今彼自身が居るのであるー(大森荘蔵「流れとよどみ」より 「記憶について」)。


大森荘蔵は物理学出身である

大森は詩人でもオカルト論者でもない、科学とは何かを問う物理学出身の科学哲学者である。自然科学は主観と外部の物質を二分し、物質の方だけを研究する二元論的な世界観に陥っていて、私たち自身を無視している。大森はそのような自分と世界を分けて考える方が間違っていると指摘した。

記憶を痕跡だとする考えも、記憶を自分とは切り離した外部とみる考えである。大森は外部など存在しない。世界は私も外もなく一つでありる。世界はそれそのものとして、私たち自身に立ち現れているとする「立ち現れ一元論」を提唱したのである。


悲嘆を超えて

大森の徹底した二元論的世界観の否定は、亡き人とのつながりを復権することになる。亡き人とは他者であり外部の存在であるからだ。「『思い出』の中に今彼自身が居る」。この言葉は心に沁みるものがある。大森は「あの人は私たちの心の中に生きている」という叙情的な感情を、哲学的考察によって理論付けた。

立ち現れ一元論は常識からは外れた考えではあるが、理性的、論理的であることを求められる現代において、悲嘆を超えるヒントになるのではないかと思われる。


参考資料と注意事項

大森荘蔵「流れとよどみ−哲学的断章−」(1981)産業図書

大森哲学は膨大な思想体系であり現在でもその後継者たちによって批判、展開されている。「立ち現れ一元論」も大森哲学では中期に位置されている。本稿はあくまでその一部を抜粋し、死者との関係というテーマに沿って解釈したに過ぎない。


ライター 渡邉 昇
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