1970年代から今日に至るまで、若者世代のファッション文化の牽引役であり続けてきた東京・原宿の最寄り駅、JR東日本山手線の原宿駅が、今年3月21日から、東京都内最古とされる木造駅舎と、鉄筋新駅舎との供用を始めた。
古いものと新しいものが共存する原宿駅
今現在、「古いもの」と「新しいもの」が「共存」している格好だが、東京オリンピック・パラリンピックの開催後に解体し、防火に適した素材を用い、木造駅舎を再現した形で建て替えられるという。新型コロナウィルス感染拡大に伴い、東京オリンピックは順延が決まったが、原宿駅の解体は「予定通り」なのだろうか。
歴史的な建物やモニュメントは、たとえ朽ち果ててしまっていても、「オリジナル」をできるだけ保ちながら残した方がいいのか。それとも、時代に即した新素材や耐震設計などを施し、「再現」した方がいいのか。ものによる。時と場合によるのは言うまでもないのだが…。
福岡県飯塚市筒野の権現谷の奥にある3基の板碑
福岡県飯塚市筒野(つつの)の権現(ごんげん)谷には、世の一切の喧騒から隔絶され、ピンと張りつめた静謐さを保った「場所」がある。それは、登りづらい岩壁に設けられた石窟に祀られた権現様。そして細い道の向かい側の修験道場の細い道登ったところに、鬱蒼と茂った木々に囲まれた、小さなお堂がある。その中には、砂岩でできた3基の板碑が安置されている。
五智如来板碑とは
これらは1182(養和2)年に、諸国を巡り、民衆に仏道を説いて回っていた僧侶である勧進僧・圓朝(生没年不明)によって造立されたもので、高さは右が153cm、中央が157cm、左が130cmだ。
左側上部が欠けた中央の五智(ごち)如来板碑が、この3基のうちのメインになるものと考えられている。三段に区分けされた上段には、胎蔵界大日如来を中心にして、5体の、密教における5つの知恵を表す如来、すなわち開敷華王(かいふけおう)・宝幢(ほうどう)・天鼓雷音(てんくらいおん)・無量寿(むりょうじゅ)の「五智如来」が並ぶ。
中段には、胎蔵界曼荼羅の中央に位置する中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)を大きな梵字で表した種子(しゅじ)、四隅には四天王の種子が配されている。
下段には、神像1体と僧形2体の合計3体が彫られ、霊山・英彦山(ひこさん)の南岳・中岳・北岳それぞれに祀られた彦山(ひこさん)三所権現を表すなど、実に手が込んでいる。また、その裏側には、「勧進僧圓朝/奉立石體/五智如来像/彦山三所権現/八葉曼荼羅梵字…現世末代□□(判読不明)行者修理/養和二年歳次壬寅/八月初四日柱時正中」の銘文が刻まれている。
両隣の板碑
左右の板碑には2行ずつの梵字が彫られているが、いずれも、下から上に読み上げる、大日如来の応・法・報の真言で、右側が大日応身真言の「ア・ラ・ハ・シャ・ナウ」と、法身真言の「アン・バン・ラン・カン・ケン」。左側は大日報身真言「ア・ビ・ラ・ウン・ケン」と上から下に読む胎蔵界五仏「ア(阿閦(あしゅく)如来)・アア(宝生(ほうしょう)如来)・アン(阿弥陀如来)・アク(不空(ふくう)成就如来)・アアンク(胎蔵界大日如来)」が彫られている。
これらの板碑を造立した圓朝の目的は不明だが、世の安泰を祈念して建てられたものと推察されている。
だが、何故、飯塚の筒野に、このようなものが建てられているのか。それは、福岡県田川郡添田町(そえだまち)と大分県日田市・中津市にまたがる、標高1200mの英彦山(1696(元禄9)年以前は彦山)における修験道の興隆が、大きく関係している。
修験道として興隆した英彦山
霊山としての英彦山開基には、様々な伝承が存在する。例えば、天照大神の子・天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)が来臨・鎮座したことから、「日子山(ひこさん)」になったという神話。修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ、634〜706)の入山。大峯山(おおみねさん、現・奈良県吉野郡天川村)で修行した、小角の五大弟子のひとりとされる寿元(じゅげん、生没年不明)による、「唐の天台山(てんだいさん)から飛来し、最初に彦山に天下った」とされる、現在の和歌山県南部・三重県南部の熊野三山の神・熊野権現の勧請。中国・北魏の僧・善正(ぜんしょう、生没年不明)による6世紀の開基。そして善正に師事した日田の猟師・藤原恒雄(生没年不明、後の忍辱)によって発展したとするもの。また、819(弘仁10)年に豊前國宇佐(うさ)郡出身の僧・法蓮(ほうれん、生没年不明)が嵯峨天皇(786〜842)の命によって上洛し、七里四方(約30km圏内)の寺領を賜り、「日子山」を「彦山」に改めた…など。いずれにせよ彦山は、中国大陸との緊密な繋がりを持ちつつ、仏教伝来以前から、この地において聖なる山として尊崇を集めていたことが窺い知れる。
このような彦山だが、鎌倉時代末期から室町時代ぐらいにかけて、彦山修験道の儀礼、修験集団の組織が整えられ、3600坊を擁し、出羽三山(現・山形県鶴岡市)・吉野(現・奈良県)・熊野同様の大勢力を有したという。それに伴い、彦山から見て北西に当たる、五智如来板碑がある飯塚市の筒野を含む、現在の福岡県内のみならず、主に古くからの山陸の交通路を通じて、佐賀県・長崎県のみならず、九州圏外の山口県にまで広がっていった。
五智如来板碑のある飯塚市筒野との関係性
また、筒野は2006(平成18)年に、明治から昭和のエネルギー革命以前まで、石炭産業で一時代を築いた「筑豊三都」の一角を占めた飯塚市に組み込まれたが、もともとは筑前國嘉麻(かま)郡に属していた。
『日本書紀』(720年)巻18の、安閑(あんかん)天皇(466?〜536?)2年(535)年の5月に、筑紫の穂波(ほなみ)や鎌(かま)に屯倉(みやけ。直轄地、またはそこで得られた収穫物などを貯蔵した倉庫のこと)を置いた、というのが、嘉麻郡の歴史上の初出だ。嘉麻一帯は、主に農業が行われていた地域であるが、五智如来板碑の北側にある丘陵の権現谷には、岩壁を削って階段を設け、横幅およそ9m、奥行き5.43m、高さ3mほどの石窟がある。そこには「岩屋権現」が祀られているのだが、かつては彦山に次ぐ大きな修験道場があったという。しかも「ここ」は、先に紹介した五智如来板碑が平安時代末期に立てられたものであったことから、彦山修験道の「全盛期」に先駆ける「信仰の場」であったことも窺い知れる。
そして英彦山は修験道としての役目を終えた
その後の彦山修験道だが、戦国期における龍造寺氏や大友氏による焼き討ち、豊臣秀吉(1537〜1598)による寺領没収などで、一旦衰退してしまう。しかし江戸期に入ると、細川氏や小笠原氏らからの庇護を得て、全盛期には及ばないものの、復興を果たした。しかも山伏たちは「聖域」内に閉じこもった厳しい修行のみならず、海を渡り、今日の西日本一帯を跋渉し、五穀豊穣・除災招福の祈祷札や「不老円(ふろうえん)」という薬を配布したり、彦山詣でを民衆に勧めたりするなど、「民間祈祷師」としての役割も果たしていた。しかし明治時代になってから、1868(明治元)年の神仏分離令、4年の廃藩置県、5年の修験宗廃止令といった、政教両面の大変革によって、組織的な宗教活動が継続不能となり、山伏たちはもちろんのこと、彦山修験道にまつわる貴重な資料や美術品の流出・離散を招いた。その結果、古代的山岳信仰にシャーマニズム、そして日本の神と仏教の仏が複雑に混じり合いながら成立・発展した独特の「修験道」の「霊山」としての歴史を閉じることになった。
五智如来板碑が今でも残っているのは奇跡
このように、歴史の荒波に翻弄され続けてきた英彦山修験道と深い関わりを有する筒野の権現谷の石窟や五智如来板碑だが、冒頭に紹介した原宿駅のように、解体の憂き目に遭うことがなかったのは、実に幸いだったと言える。殊に、現在総面積214.1平方キロメートル、大体、埼玉県さいたま市や千葉県成田市と同じ規模の飯塚市内には、主要炭鉱跡だけでも、三菱鯰田(なまずた)・三菱飯塚・日鉄二瀬(にってつふたせ)・住友忠隈(ただくま)・古河目尾(しゃかのお)・相田(あいだ)・麻生綱分(つなわき)・麻生上三緒(かみみお)・牟田(むた)・三井山野・明治平山と11の炭鉱跡が存在し、小規模の鉱山会社、または個人的に掘り進められた狸掘りの坑道などを含めると、想像を絶する数の炭鉱が存在していた。たまたま石炭の鉱脈が筒野の権現谷周辺の地下に通っていなかったことから、取り壊されて「○○炭鉱△△坑」にならなかっただけの話だ。しかし、もしかしたら、「ここ」ではなく、無数に存在していたという、英彦山修験道に絡んだ小規模な修行の場が「○○炭鉱△△坑」になってしまっていたかも知れない。
また、炭鉱開発に限らず、大雨や台風による土砂崩れや河川の決壊、地震などの自然災害も、いつ発生するか、わからない。
未来に残るもの 残り続けてほしいもの
100年後、200年後…今あるものが、果たしてどれだけ残っているだろうか。筒野の権現谷の石窟や五智如来板碑のように、「残っている」ことが奇跡であって、むしろ将来の原宿駅旧駅舎のように、「復刻」されることすら「幸運」で、跡形もなく消え去ってしまっているものが大半なのだろう。しかし、せめて、五智如来板碑を建立した圓朝の「思い」、すなわち、「世の安泰を祈念」や、彦山修験道における神仏への深い信仰心だけは、できることなら、これからもずっと、残り続けて欲しいものである。
参考資料
■末永茂世(編)『筑前旧志略 下巻』1887年 末永茂世
■植松安『仮名日本書紀 下巻』1920年 大同館書店
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■中野幡能「英彦山と九州の修験道」中野幡能(編)『山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(2-32頁)名著出版
■佐々木哲哉「修験道英彦山派の峰中修行」中野幡能(編)『山山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(34-64頁)名著出版
■大神信證「英彦山大行事社をめぐる信仰について」中野幡能(編)『山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(65-79頁)名著出版
■長野覺「英彦山山伏の在地活動」中野幡能(編)『山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(80-107頁)名著出版
■五来重「彦山の開創と熊野信仰」中野幡能(編)『山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(108-122頁)名著出版
■中野幡能「英彦山と九州の修験道」中野幡能(編)『山岳宗教研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(2-32頁)名著出版
■長野覺「山岳霊場における聖・俗境界の諸相 −九州英彦山を事例として−」『歴史地理学紀要』1988年(123-151頁)歴史地理学会
■中野直毅「英彦山修験の始まり 筒野の五智如来板碑・建武の板碑」深町純亮(監修)」『図説 嘉穂・鞍手・遠賀の歴史』2006年(72-73頁)郷土出版社
■日本石造物辞典編集委員会(編)『日本石造物辞典』2012年 吉川弘文館
■恒遠俊輔『修験道文化考 今こそ学びたい共存の知恵』2012年 花乱社
■「飯塚市 五智如来板碑 指定区分:福岡県指定有形文化財(考古資料)(PDF)」添田町・添田町教育委員会『ふるさと再生英彦山総合調査報告会 英彦山の歩みとその魅力』2015年11月23日
■錦織亮介「英彦山の宗教美術(PDF)」添田町・添田町教育委員会『ふるさと再生英彦山総合調査報告会 英彦山の歩みとその魅力』2015年11月23日
■長嶺正秀・佐野正幸(著)『豊前国英彦山 その歴史と信仰』2016年 海鳥社
■「JR原宿駅新駅舎の供用始まる ホーム2面化、コンコースは3倍に」『シブヤ経済新聞』2020年3月21日
■「解体される原宿駅と永久保存の東京駅、2つの駅舎を巡る数奇な歴史」『DIAMOND online』2020年3月30日
■「五智如来板碑」『飯塚市観光ポータル』
■「飯塚の歴史と史跡」『飯塚市観光ポータル』
■「筑豊 飯塚 炭鉱遺構めぐりマップ(PDF)」『飯塚観光協会』