新型コロナウィルス感染拡大防止のため、4月7日に発令された緊急事態宣言後、IT関連企業・Agoopによる、携帯電話利用者の位置情報ビッグデータから、3月下旬から4月12日までの東京都内各所の人出を分析したところ、東京・渋谷のスクランブル交差点付近では3月22日と比べると90%減少しているが、品川区の戸越(とごし)銀座商店街ではたった12%の減少にとどまっている、などの結果が発表された。その報道を受け、戸越銀座商店街の飲食店や商店街連合会などに、「なぜ店を閉めないのか!」と抗議のメールや電話が殺到したという。
戸越銀座商店街は、商店街として日本一の長さを誇る
そもそも「戸越銀座商店街」とはどんな商店街なのだろうか。品川区は東京湾側の八潮(やしお)地区・品川地区・大井地区、内陸部の大崎地区・荏原(えばら)地区の4つに分かれるのだが、戸越銀座は最も東京湾から遠く、目黒区・大田区に接する西南部の荏原地区に存在する、日本一の長さとされる1.3kmに及び、約400の店舗が並ぶ商店街だ。
戸越銀座商店街のある荏原地区の歴史と銀座という名前を冠することになった経緯
荏原地区は元来、米や麦などを耕作していた農村地帯だったのだが、イギリスやアメリカの「田園都市(garden city)」のコンセプト、すなわち、土地に根づいた形で憧憬をもって眺められる「都会性」と「安らぎ」を同時に備えた「場所」を目指して、当時の東京市中心部から離れた農村地帯の造成・宅地化の波が広がり、耕地整理や土地区画整理の機運が高まってきたことによって、1918(大正7)年に平塚耕地整理組合が設立された。その10年後には、池上(いけがみ)電気鉄道(現・東急池上線)が五反田駅まで開通した。こうしたことから、1931(昭和6)年までには、荏原地区内の小山(こやま)や戸越周辺が目ざましく発展した。
そして戸越銀座の「銀座」だが、このあたりは地形的に谷底であったため、常に道路の冠水や悪路に悩まされていた。そんな時、1923(大正12)年の関東大震災の際に焼け出された中央区銀座のレンガを大量に譲り受け、水路の暗渠化や、道路の排水工事に活用した。それが縁となって、1927(昭和2)年に商店街をつくる際、「○○銀座」の名を日本で初めて冠することになったのだ。
戸越銀座商店街から少し離れた平塚1丁目に庚申(こうしん)供養塔が佇んでいる
その後、第2次世界大戦末期の1944(昭和19)年11月24日、翌年4月15日、5月24、25日、戸越銀座商店街を含む荏原地区は空襲によって、2000人以上の罹災者を出すほどの甚大な被害を受けた。とはいえ「焼け跡・闇市」の終戦直後から、戸越銀座を含む、品川区内の商店街は復興を遂げ、「商店街」らしい街並みを徐々に取り戻していった。1951(昭和26)年には品川区商店街連合会が結成され、互いに協力・連携を取り合うこととなり、高度経済成長〜オイルショック〜バブル経済〜リーマンショック〜東日本大震災…などの荒波に飲まれながらも、地域の人々に親しまれ、活気を保った状態で現在に至っている。
そんな戸越銀座商店街だが、商店街から少し外れた平塚1丁目の宅地が密集したところに、2基の「庚申(こうしん)供養塔」が存在する。
庚申供養塔の建立時期や目的とは
1つは、「庚申塔」と彫られただけの、高さ80cm、幅36cmの角柱型のもので、1928(昭和3)年11月18日に立てられた。もう1つは小堂内に安置された、邪鬼を踏みしめる「青面金剛(しょうめんこんごう)」が浮き彫りにされたもので、高さ108cm、幅35cm。台座には3匹の猿が彫られている。1950(昭和25)年9月に、発起人6名によって再建されたものである。これらが立てられた目的は不明だが、造立時期を戸越銀座商店街の歩みと照合すると、昭和3年は、銀座のレンガによって商店街が整えられた時期であり、昭和25年は、戦後の混乱からひと段落した後、商店街に活気が戻り始めた時期とリンクしている。これは偶然なのだろうか。
そもそも庚申供養塔の「庚申」とは一体なんなのか
そもそも「庚申供養塔」の庚申とは何なのか。荏原地区など、品川区内の旧農村地域にはかつて、60日に1回回ってくる「庚申(こうしん/かのえさる)」の日に、村内において持ち回りで決められた家に集まり、青面金剛像や「庚申」の文字を記した掛け軸を掛け、夜通し飲み食いをする、「庚申待(まち)」と呼ばれる習慣があった。
これは中国の道教における「三尸(さんし)説」に端を発するもので、日本には奈良時代(710〜794年)に入ってきたと言われている。三尸説とは、人間の頭部には上尸(じょうし)、腹部には中尸(ちゅうし)、脚部には下尸(げし)という3匹の虫が住んでおり、これらは人間の生命を司っている。
しかもこの虫たちは、庚申の日の夜、人が眠りについた後に体から抜け出し、天帝/司命神(しめいしん)/司命道人(どうじん)に、その人が犯した悪事を報告する。しかもその悪事の内容や回数によって、天帝によって人の寿命が裁定されてしまうのだ。そうなっては困る!ということで、「守庚申(しゅこうしん)」という行事を行う。
それは、3匹の虫が人の体内から出て行けなければ、天帝に悪事を報告することは叶わず、寿命が削られることもないと考え、太陽が昇るまで寝ずに起きていて、酒盛りをしたり、御馳走を食べたりするのだ。それが江戸時代に入ると、村人たちの娯楽のひとつとなり、村中で集まって、夜通し宴会をするようになったという。
庚申供養塔にある青面金剛とは?
小堂に納められている、不動明王のような怒り顔の「青面金剛」とは、もともと中国で生まれた疫病神だった。しかし、「毒をもって毒を制す」ではないが、人に災厄をもたらすほどの強大な力をもって、災厄そのものを祓う神として奉じられるようになった。室町時代(1336〜1573年)に、修験道と庚申信仰が結びつき、旅の修験者・山伏らによって民衆に伝えられた後、それに対抗するような形で、仏教僧によって、帝釈天の使者が人の姿を取って庚申信仰を広めたと説かれた『庚申因縁記』(1496年)が整えられ、庶民層に「仏教色」が強い庚申信仰を広めたことに端を発する。当初は釈迦・阿弥陀・薬師・大日・六観音・文殊・弥勒などの仏菩薩を本尊として祀っていたのだが、仏教において帝釈天の使者とされる青面金剛が全面に出る形で、いつしか本尊とされるようになったという。
三猿とは?
そして台座の「三猿」だが、庚申供養塔には「つきもの」である。その理由として、ひとつは、室町期に神道における庚申信仰の本尊として、比叡山麓の日枝(ひえ)大社の本尊として、山王(さんのう)権現が迎えられたのだが、山王の使いが猿であること。そしてその「猿」が、記紀神話に登場し、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を高天原(たかまがはら)から地上界まで道案内をした、国つ神の猿田彦(さるたひこ)命と同一視されたこと。2つ目は、「庚申」の「申」が十二支の「申(さる)」と同義であることから、道徳訓の「見ざる・聞かざる・言わざる」と結びついたものであるとするものだ。恐らくはこの2つの説が融合したのだろう。
江戸期以降、修験道・仏教・神道と複雑に絡み合った「庚申信仰」は、長寿延命・心願成就・無病息災・厄除開運・道開きなどのご利益があるとして、「庚申供養塔」と併せて、多くの人々に奉じられるようになった。
最後に…
新型コロナウィルスが完全に撲滅された後、戸越銀座商店街に限らず、我々が自分の行きたいところ、好きなところに心おきなく歩き回ることができる日々が来ることを期待するのと同時に、もしもそれが叶った暁には、不自由な生活はおろか、生命の危機にさらされ、多くの人が亡くなってしまった日々を忘れず、昭和3年に立てられていたものなのか、それとも、江戸時代など、古い時代に立てられていたものだったのかは不明だが、昭和25年に再建され、今なお大切に祀られている平塚1丁目の庚申供養塔に向かって手を合わせるように、祈りのひと時を持ちたいものである。
参考資料
■大道安次郎『周辺都市の研究 宝塚市のケース・スタディ』1973年 恒星社厚生閣
■品川区教育委員会(編)『品川区資料 (二) 庚申塔・念仏供養塔・回国供養塔・馬頭観音供養塔・地蔵供養塔・道標』1983年 品川区教育委員会
■品川区教育委員会(編)『しながわの史跡めぐり』1988/1997/2005年 品川区教育委員会
■品川区(編)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区
■「庚申とは」『神仏ネット』2019年3月8日
■「データ分析 緊急事態宣言で東京都内の人出はどう変化したか」『NHK NEWS WEB』2020年4月8日
■「緊急事態宣言後初の週末…戸越銀座商店街は人通り絶えず」『スポーツ報知』2020年4月12日
■「データ分析 繁華街の人出は減少 商店街は…外出自粛」『NHK NEWS WEB』2020年4月13日
■「にぎわう商店街に苦情殺到 『野放しか』 困惑の戸越銀座」『朝日新聞DIGITAL』2020年4月15日
■「池上線」『東急株式会社』
■『戸越銀座商店街オフィシャルサイト』
■「戸越銀座商店街」『しながわ観光協会』
■「東京大空襲とは」『東京大空襲・戦災資料センター』