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日本各地の社寺に残る不老長寿の象徴「人魚のミイラ」を調べてみた

人間は長きに渡り、不老長寿への夢を抱いてきた。日本における不老長寿伝説として古くから知られているのは、人魚の肉を食べてしまったことから、800歳という長寿を得た八百比丘尼(やおびくに)の話だ。


不老長寿の伝説 人魚

現在の北陸地方のある村の浜辺に、484(清寧天皇5)年、どこから来たかのかわからない漁師のような男が現れ、住みついていた。ある時、男は村の人々を招き、ご馳走を振る舞うという。ふと見ると、男は人間の頭がついた魚をさばいていたので、村人たちは食べるふりをして、料理に手をつけなかった。

しかし、村人の中の物好きが、男の出した料理をこっそり家に持ち帰った。それを家の娘が、こっそり食べてしまった。その結果、娘は若い乙女のまま、老いを迎えることもなく、ずっと生き続け、尼となって、主に隠岐國(現・島根県)や越後(現・新潟県)など、日本海沿岸地域を遊行した。そして後に「八百比丘尼」と称された尼は、若狭國小濱(おばま、現・福井県小浜市)に落ち着いたという…。


人魚が確認できる日本の歴史書

人魚が日本の歴史上に現れるのは、『日本書紀』の619(推古天皇27)年の4月に、近江國の蒲生川(現・滋賀県東近江市の佐久良川)に人のような形をしたものが現れたこと。そして7月に摂津國堀江(現・大阪市西区の南東部)の漁師が網を仕掛けていたところ、乳児のような、魚でも人でもない、名づけようのないものを捕らえたことが記録されている。しかし、これらに関して吉凶の判断に基づいて、何らかの措置がなされたか否かは不明だ。

時代が下り、三浦浄心(1565〜1644)の『北条五代記』(元和年間(1615〜1623)成立か)巻7によると、昔、陸奥(現・青森県・岩手県・宮城県・福島県・秋田県東北部)や出羽(現・山形県・秋田県)の海辺に、人魚の死体が頻繁に漂着していた。そんな1189(文治5)年の夏、外の濱(現・青森県の陸奥湾沿岸)に人魚が流れ着いたのを、人々が怪しんで注視していた。すると同年秋に、奥州藤原氏の秀衡(ひでひら、1122?〜1187)一族がことごとく滅亡した。また、1213(建保元)年の夏、秋田の海辺で人魚が打ち上げられた。このことは当時の将軍・源実朝(1192〜1219)に報告された。そしてそれにどんな意味があるのか、博士らに占わせてみたところ、挙兵の兆しという結果が出たため、祈祷をさせた。それから程なくして、和田義盛(1147〜1213)による合戦が勃発した。その後、1247(宝治元)年3月11日、津軽の海辺に人魚が流れてきた。それが執権の北条時頼(1227〜1263)に伝えられた後、鶴岡八幡宮で祈祷がなされた。その後6月に三浦泰村(やすむら、?〜1247)による合戦があった…など、当時の人々にとって、「人魚」の死骸がどこかの海辺に流れ着いたことは社会的動乱の前触れとみなされ、それを調伏するための祈祷がなされていたことが窺い知れる。


古今東西、人魚は必ず若く美しい女性だった

また、死体の場合はともかく、人に目撃されたり深く関わった人魚伝説における、半人半魚の「人魚」の「描かれ方」だが、どういうわけか、いずれも若く美しい女性なのだ。

例えば、肥前國平戸(現・長崎県平戸市)藩主・松浦清(1760〜1841)による随筆、『甲子夜話』(江戸時代後期成立)によると、延享年間(1744〜1748)に九州北部の玄界灘の沖合18メートルほどのところに現れたとされる人魚の場合、上半身は人間のそれと変わらず、青白い顔色で、薄赤色の長い髪の女性だった。船員たちが、こんなところに海女がいるはずがないと怪しんでいたところ、その人魚は微笑を浮かべて海中に没した。その際、人魚の魚尾が見えたという。

西欧における人魚伝説で有名なものは、救急車やパトカーなどの警告音「サイレン siren」の語源でもある、ギリシャ神話のセイレーンだろう。上半身は若く美しい女性、下半身が魚のセイレーンは、美しい歌声で船乗りたちを誘惑し、船を難破させてしまうというものだ。

ジャーナリストの宮武外骨(がいこつ、1867〜1955)や小説家で民俗学者の藤沢衛彦(もりひこ、1885〜1967)らによると、人魚が「若く美しい女性」であるのは、船旅の辛さ、疲れや孤独の中で、漁師や船乗りたちが、海女やオットセイ、そして岩礁の上で人間のように胎児を抱いて、乳を与える習性があり、人間の幼児のような鳴き声を発するという海棲動物のジュゴンを人魚と見誤ってしまっていたこと。そして更に目撃談が誇張され、話が広められてしまったことに加え、そもそも古今東西の「魔物」の多くは美しい女であること。それらが混じり合って、人魚が「若く美しい女性」と見なされてきたのではないかと推察している。


日本各地の寺社や博物館には人魚のミイラが数多く残されている

そのような、妖しくもロマンあふれる人魚だが、日本各地の社寺や博物館には、人魚のミイラが存在する。最も有名なものは、和歌山県の高野山山麓にある学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)において、秘宝とされ、大切に安置されているものだ。全長約60センチで、顔はサルのように歯をむき出しにし、さながら叫んでいるようにも、苦しんでいるようにも見える。下半身は鱗に覆われ、尾びれもあり、まさに魚そのものだ。そしてこのミイラを見た者には、「若返り」のご利益があると伝えられている。


人魚のミイラを作る職人が存在していた可能性は高い

このようなミイラは、先に挙げたジュゴンのミイラなどではなく、サルの頭蓋骨に木の胴体をつけ、それに鱗を貼りつけたりするなど、熟練した職人の手によるものとしか思えないほど、実に精巧なものが少なくないという。それは、幕末〜明治になったばかりの頃、人魚の見世物が流行り、全国各地の寺社のお祭りなどでさかんに興行されたためである。当時の人々を惹きつけたのは、ただ単に「物珍しいもの」を見てみたいという理由だけにとどまらず、人魚のミイラには、八百比丘尼の伝説から脈々と伝わる、「不老長寿」や「若返り」に功徳があると信じられていたからだ。更に蔵前(現・東京都台東区蔵前)近辺には、ミイラづくりの「名人」がいた。名人曰く、サルの頭蓋骨が一番都合よく、魚はボラの鱗に限ると語っていたという。また、明治後半期に浅草六区にあった、「珍世界」という、古今東西の「不思議なもの」を陳列していた、今日で言う「博物館」または「テーマパーク」のミニチュア版のようなところにあったとされる人魚の場合は、模造の人骨の下部に、干した魚を継ぎ合わせ、ところどころに毛を生やしていた「こしらえもの」だったという。

そしてそれは「江戸」や「東京」に限ったものではなかった。八戸藩(現・青森県東部)の南部家に旧蔵されていた「人魚のミイラ」の場合、紙の張り子・シュロの木・魚の口・鱗を使ってつくられていたことから、人魚のミイラづくりの「職人」「名人」は、日本各地に存在したことが推察される。


それ故に精巧すぎた人魚のミイラ

しかもそれらは「子どもだまし」の粗略なものではなく、今日においても世界中の国々に一目置かれている「メイド・イン・ジャパン」らしく、先に述べた名人や職人らによって、剥製や燻製をつくる技術を駆使してつくられていたことから、伊万里焼などの陶磁器や浮世絵の名画同様、「神秘の国・日本」を物語るものとして、ヨーロッパ各地に「流出」「輸出」されていたという。例えば、イギリス・大英博物館の「啓蒙ギャラリー」に展示されているミイラは、ヴィクトリア女王の孫、コノートのアーサー内親王(1883〜1938)から寄贈されたものだ。アーサー内親王は1918(大正7)年、日本の戦艦・霧島に賓客として招かれ、そこからカナダに渡った経験があることと関係するのだろうか。日本の「有末清次郎」から、「18世紀の日本の沖合で捕まえられた人魚」を入手したという。調査の結果、それはやはり、サルと魚の合成物だった。X線撮影によって判明したことは、尾ひれには金属棒で補強された背骨が入っており、へその辺りで切断されていた。そして頭部は石膏で固められていたことが判明している。しかも「職人の技」だろう。かなりの時が経過しているにもかかわらず、今なお鱗が崩壊せず、「人魚」らしさを「演出」しているというのだ。


最後に

「不老長寿」を求める人々はかつて、「人魚」やその肉に叶わぬ夢を託していた。今、我々は遺伝子工学・医科学・薬学、果てはAI技術など、最新の科学技術にそれを期待しているが、果たしてそれは実現できることなのだろうか。叶わぬ夢と諦めるのか。それとも、いつか叶えてみせる!と夢を追い求め続けるのか。いずれにせよ現段階では、「不老長寿」は「夢物語」でしかなく、我々は死を迎えるしかなすすべがない。もしも何百年か、何千年かたった後、人間が「不老長寿」を叶えることができていたなら、今、我々にとって「最新」とされている諸技術はもちろんのこと、葬送儀礼やそのしきたりなどを含めた諸宗教そのものまでもが、我々にとっての「人魚伝説」のような、「ロマン」「迷信」などのとらえられ方をしているのかもしれない。


参考資料

■笠原保久(編)『近世実録奇話叢』1892年 篁文堂
■博文館編輯局校訂『校訂 後太平記 北條五代記』1899年 博文館
■床岳山人『怪談お伽大集』1920年 日進堂
■物集高見『奇蹟ものがたり:行脚しらべ』1922年 雄文堂
■藤沢衛彦『日本伝説研究 第2巻』1925年 大鐙閣
■本山荻舟『江戸前新巷談』1926年 波屋書房
■国民新聞社社会部(編)『回春秘談・不老長生』1929年 広陽社
■宮武外骨(編)『人面類似集』1931年 宮武外骨
■島影盟『山の不思議 海の怪異:海、山に探る妖怪変化の正体』1936年 森田書房
■和田民治『蘭印生活二十年』1941年 講談社
■岡野繁蔵『南洋の生活記録』1942年 錦城出版社
■近藤雅樹「人魚のミイラと博物館」『淡交』2004年8月号(38-41頁)株式会社淡交社
■坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋(校注)『日本書紀 四』1995/2006年 岩波書店
■久保田信「四度若返ったベニクラゲ Turritopsis sp. (ヒドロ虫綱,花クラゲ目)」『日本生物地理学会会報』2009年(97-99頁)日本生物地理学会
■山口直樹『【決定版】妖怪ミイラ完全FILE』2010年 学研パブリッシング
■「第62回企画展 病をいやす 〜くすり・まじない・神だのみ〜」『岩手県立博物館だより』No. 124 2010年3月(5頁) 岩手県立博物館
■「【関西の議論】これは人魚のミイラなのか、高野山の麓に安置される「ミステリー」の正体は…近江国「人魚伝説」と絡み合う秘話」『産経WEST』2014年8月29日
■山口直樹『日本妖怪ミイラ大全』2014年 学研パブリッシング
■山中由里子「人魚のミイラ−「リアルなニセモノ」と対面する驚き」国立民族学博物館(編)『見世物大博覧展』2016年(194-195頁)国立民族学博物館
■「民族学者の仕事場:Vol.4 近藤雅樹−「人魚のミイラ」−標本資料の真贋(しんがん)」『国立民族学博物館』
■「和歌山 学文路苅萱堂」『日本伝承大鑑』


ライター 鳥飼かおる
人魚ブランケット

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