近年自らの臓器の提供を許可するドナーカードは「命のリレー」のスローガンと共に社会に受け入れられつつある。医療ドラマなどでも臓器移植の話を扱うと、視聴者のほとんどが様々な葛藤を覚えながらも肯定的な感想を抱くようである。では生と死を考えるべき宗教の立場からはどうなのか。仏教の観点から考えてみたい。なお、臓器移植と不可分の問題である脳死については膨大な内容になるためあえて触れないこととする。
臓器提供は利他心の極み 臓器提供は仏教でいう菩薩行
自らの生命活動が停止した後に、臓器を求める人に対してこれを提供する行為を仏教でいう「菩薩行」(布施行)として容認する論がある(梅原猛「脳死・ソクラテスの徒は反対する」文藝春秋1990年2月号)。
菩薩とは定義は様々だが、本稿では如来になるべく修行している存在とする。如来は完全に悟りを開き宇宙の真理を説くことのできる、いわば「仏の完全体」であり仏陀も「釈迦如来」と呼ばれている。これに対して菩薩は如来になるべく如来に教えを乞い日々修行している「修行中の仏」である。修行中と言っても未熟者という意味ではない。菩薩は本来いつでも悟りを開ける力を持ちながら、自分の悟りよりも迷える人達を救うことを優先しこの世に降り立ってくれる存在であるとされる。
それゆえに観音さま(観音菩薩)や、お地蔵さん(地蔵菩薩)のように庶民に親しまれている存在である。つまり、菩薩行とは自分のことを犠牲にしてでも、他者を救う自己犠牲の尊い行為ということである。仏陀が前世において飢えた虎に身を捧げた「捨身飼虎」の逸話はよく知られている。菩薩行という思想は自分を犠牲にしても他者を救う慈悲を重視した大乗仏教の精神をよく表している。
自我があるとろくなことはない 無我論を説く原始仏教
一方で、原始仏教では無我を説く。人間には変わらない実体、自我、我などは存在しないとする。「我」とはつまりこの「私」のことである。我が無いとはどういうことなのか。実際「我」とは難しい。手足を切り落としたなら「我」は減ってしまうのか。頬をつねれば痛いという感覚があるが、これが「我」か。では麻酔で痛覚を麻痺させたら「我」は消えるのか。霊魂のような実体を想定すればどうか。身体の上に霊魂が重なって問題が先送りになるだけである。結局「我」なる実体は無いと仏教は説く(我を構成する要素は実体だとする論争もある)。
誤解を恐れずに例えとして、心理学で言う錯視現象「主観的輪郭」などはイメージしやすいかもしれない。カニッツァの三角形、エーレンシュタイン錯視などが有名だが、存在しない図形がみえる現象のことである。エーレンシュタイン錯視は直線が円状に並んでいると直線が集中する空間に円図形が浮かんで見える。しかし実際には存在しない。「我」なるものも、絶えず集まる世界の様々な要素、色は形や臭いなどが一時的に集まっただけの錯視に過ぎず、存在するかのように感じているだけというわけだ。悲しみ苦しむ実体がそもそも無いのである。仏教ではそんなものが実在すると考えるから、欲を持ち、苦しみや悲しみに迷わされるとし、存在しない我の命に執着する(無明)なかれと説く。それを悟れば生死を超越でき、苦しみから逃れられるというのである。
臓器提供は提供される側の自我(生への執着)を認めている
菩薩行もこの無我論から導かれる。無我であれば我と我の持続、つまり生に執着することはない。生の執着から自由であればこそ、恐れることなく我が身を虎に与えることができる。その理屈により臓器提供から菩薩行が導かれる。しかし、これは一面的な解釈である。自分はそれで良いとしても、与える他者については生への執着を認めることになる。
与えることと与えられることは、無我を良しとする仏教では矛盾が生じる
臓器移植とは要するに自分または家族が生きるために、他人の死を願い、他人の臓器をもらう行為である。どのような言い方をしようとこれは事実である。これは仏教の立場で言えば生への執着である。菩薩行は本来仏教が克服しなければならないとするはずの行為、生に執着する行為に加担することになり矛盾が生まれる。
自分自身を捧げる行為は生に執着しないことと矛盾しないが、その対象である他者が生に執着することに加担することになるのでは自己満足でしかなく、自分の悟りより他者の救いを重んじる菩薩の名に反することになる。むしろ生死のこだわりから解放する道を説くのが医療とは違う仏教の、宗教のあり方ではないのか。
誰かの犠牲の上に私達は成り立っている
しかし他人の死を望むことを否定する見解は健常者の倫理である。自分が、家族が生死の境に立つ極限状態になればそのような倫理は吹き飛ぶだろう。「生きる」「生きたい」という思いは心の底から響く声である。そして人間は動物や魚を食べたり他の命を犠牲にしなければ生きていけない存在であることも事実である。
「臓器提供=善」と決めつける危険性
それでも、他人の死を願う心性を否定的に指摘する役目は必要であると考える。「命のリレー」が無条件に美しい行為とされるのは危険だからだ。「命のリレー」だけが強調され、ドナーカードが社会に認知されることで半強制的なニュアンスが添えられる。自分もしくは家族の身体を切り刻まれることを拒む人や、脳死は死ではないとして臓器の提供を拒否する人も大勢いる。「命のリレー」が絶対的な正義として認識される社会は、そうした人達を無慈悲な人、エゴイストであるとするレッテルを貼りかねない。
また、菩薩行・命のリレーの名の下に脳死者の身体を道具、パーツとして扱う論理がまかり通ってしまう危険もある(森岡正博「生命観を問い直す」ちくま新書(1994))。
真の菩薩行と宗教の役割
あらゆる医療は「延命」でしかない。臓器を移植しようが何しようがゴールが延長されるだけで結局はファイナルステージに立つことになる。(もちろん最期まで全力を尽くすであろう医師には敬意を表するが)その瞬間、医療から宗教へバトンタッチされる。宗教の役割は治療でなく、死にゆく人に寄り添うことである。そして無我の教えを説き「生」への執着から解き放ち、安らかに看取ることである。それこそが本来の菩薩行というものではないだろうか。
「命のリレー」自体を否定するつもりはない。医療・医学が「生」にこだわり「生」に重きを置くのは当然である。しかし医学の倫理と同じことを説くなら宗教の存在意義はなくなる。ドナーカードが絶対的正義としての権力を持つことに疑問を呈すること。地獄への道は善意で敷き詰められていることもひとつの真理であると指摘すること。そのような警鐘を鳴らすことは宗教の大きな役割である。