4月下旬から5月にかけて、タケノコ収穫が最盛期を迎える。その少し前の今年4月12日、タケノコの名産地で知られる千葉県南部の大多喜町(おおたきまち)の平沢地区で、120年に1度とされる、淡竹(はちく)の花が咲いたと報じられた。これはとても珍しいことで、竹林のオーナー・花崎喜三男さんは、花が咲いた後に、淡竹そのものが枯れてしまうことが少なくないことから、「特産のひとつが消えてしまうのではないか」、そして、「竹の花が咲くと飢饉になる」と長年言い伝えられて来たことを挙げ、凶事の前触れかもしれないと心配していたという。
品川区小山・戸越・中延や目黒区碑文谷・八雲などではたけのこが名産品だった
実は「タケノコ」は、かつて武蔵国荏原(えばら)郡内、現在の東京南部に位置する品川区小山(こやま)・戸越(とごし)・中延(なかのぶ)や目黒区碑文谷(ひもんや)・衾(ふすま、現・八雲(やくも))などでさかんに栽培されていた。1872(明治5)年の『日本産物志』には、練馬の大根などと同様に、タケノコが目黒の「名産品」と記されていた。最もさかんだったのは、これらの地域に目黒蒲田電鉄(現・東急目黒線)や池上電気鉄道(現・東急池上線)の敷設、そしてそれらの沿線における整備・宅地化拡大以前、明治(1868〜1912)から大正(1912〜1926)時代までだった。例えば、1902(明治35)年当時、中延村のある農家では、タケノコが1年間の農産物売上高のおよそ4分の1を占めていた。そうしたことから、戦前まで、先に挙げた地域では、「タケノコが採れたら」「タケノコまで待ってくれ」などを意味する、「タケノコ勘定」という言葉が使われるほど、生活に密着したものだったという。
たけのこの名産地となるまでに一役買ったのが山路治郎兵衛勝孝だった
このような旧・荏原郡におけるタケノコ栽培の興隆に、大きな役割を果たした人物がいる。江戸時代に鉄砲洲(てっぽうず、現・中央区湊)で廻船問屋を営み、苗字・帯刀を許されていた豪商・山路治郎兵衛勝孝(やまじじろべえかつたか、生没年不明)だ。
1772(安永元)年に、治郎兵衛は戸越村に別宅を建て、移り住んできた。戸越村やその周辺はかつて「目黒台」とも呼ばれた、標高35〜25メートルの台地だったことから、常に水不足で水田に適さず、畑作が行われていたものの、その収穫も少なかったという。それを見かねた治郎兵衛は、偶然に見かけた、芝(現・東京都港区)の薩摩藩上屋敷に鬱蒼と茂っていた孟宗竹(もうそうちく)の種竹を薩摩藩に掛けあって数株分けてもらい、自分の家の周囲で栽培を始めた。1789(寛永5)年のことだった。
品川区小山などはたけのこの栽培に非常に適していた
孟宗竹はもともと中国南部原産で、「江南(こうなん)竹」とも呼ばれる。今では格段珍しいものではないが、江戸期には主に、薩摩藩内(現・鹿児島県)や琉球(現・沖縄県)で食糧、そして庭園などでの観賞用に多く植えられていた。
幸いなことに、治郎兵衛が植えた竹は、目黒台周辺の土壌に合っていた。そして彼自身の工夫もあって、種竹は数年後には多くのタケノコを収穫できるほど成長したという。そこで治郎兵衛は近隣の村人たちに孟宗竹の株を分け、現金収入の途を開いた。しかも目黒台のタケノコが江戸っ子に人気を博したのは、江戸五色不動のひとつとされる目黒不動尊(瀧泉寺、りゅうせんじ)門前の料亭でタケノコ飯を供しており、それが「名物」となっていたこと。また、1899(明治32)年当時には、4月下旬から5月にかけて収穫されるものと比べて味が落ちる、7月から9月に採れる「悪い根」はシナチク(メンマ)に加工され、横浜の中華街に卸されていたためだ。
品川区小山1丁目に「孟宗筍栽培記念碑」がある
品川区小山1丁目の住宅街に、「孟宗筍栽培記念碑」がある。これは、治郎兵衛の息子・三郎兵衛が1806(文化3)年、治郎兵衛の一周忌に際し、山路家の旧宅付近に歯や骨を埋めた後、墓碑として立てたものだ。記念碑の右側、コンクリートの塀にはめ込まれているように見える古びた石には、おぼろげながら、「殖竹塚」と刻まれているのが見える。門扉の向こうにある記念碑の表面には、「竹翁(ちくおう)」とも称した治郎兵衛の辞世の句が彫られている。
「櫓(ろ、船などを漕ぎ進める道具)も楫(かじ、船の方向を定める船具)も 弥陀にまかせて 雪見哉(かな)」
孟宗竹を目黒台の人々に広め、タケノコを一大産物とするために尽力した治郎兵衛らしく、戒名は「孝竹院釈筍翁居士」だった。
今でも武蔵小山では「ムサコたけのこ祭り」が行われている
先に挙げた地域は今、全く「タケノコの里」の雰囲気はなくなってしまっているが、かつてタケノコの名産地だったことを「町おこし」の起爆剤として、2012(平成24)年から毎年4月下旬の日曜日に、東急目黒線・武蔵小山駅前で、「ムサコたけのこ祭り」が開催されている。お祭り当日には、品川区内のゆるキャラや近在の高校生らによる音楽やダンスパフォーマンスに加え、冒頭で紹介した大多喜町と協力して、新鮮なタケノコをたっぷり用いた3000人分のタケノコ汁を来客者に振る舞うなどのイベントが催されるなど、地域の人々を大いに楽しませている。来年の今時分は、大多喜町のタケノコ汁やパフォーマンスを心おきなく満喫しながら、「目黒台」に孟宗竹栽培を広めてくれた山路治郎兵衛を偲びたいものだ。
参考資料
■伊藤圭介『日本産物志 前編 武蔵部 上』1872年 文部省
■品川区教育委員会(編)『しながわの史跡めぐり』1988/1997/2005年 品川区教育委員会
■「しながわの昔話 vol.6 「治郎兵衛と孟宗筍」」『品川区環境情報活動センター』2005年
■「歴史を尋ねて 目黒のタケノコ」『目黒区』2013年10月1日
■品川区(編)『品川区史2014 歴史と未来をつなぐまち しながわ』2014年 品川区
■「品川歴史館解説シート:江戸野菜の名産地・品川の農業(PDF)」『品川区立品川歴史館』2016年3月10日
■「品川歴史館企画展 戸越と小山〜山路治郎兵衛の筍栽培と足跡〜」『品川区』2018年4月5日 o.jp/PC/shinagawaphotonews/shinagawaphotonews-2018/20180331143221.html
■「武蔵小山で「ムサコたけのこ祭り」開催迫る タケノコ汁3000杯を無料で振る舞う」『品川経済新聞』2018年4月18日 https://shinagawa.keizai.biz/headline/3050/
■「120年に一度の「淡竹」開花 凶事の前触れ?「特産消える」所有者懸念 大多喜のタケノコ産地」『千葉日報』2020年4月3日
■「孟宗筍栽培記念碑」『ココシル品川』