いつでもどこでもどんな時でも「派閥争い」「権力争い」が起こるのは世の常だ。昨今の「コロナ禍」のような、不安と混乱の今こそチャンスと捉え、積極的に活躍する人もいれば、「他人事」「高みの見物」よろしく、ごく平凡な人物がいろいろな敵を倒し、のし上がっていく様子や、逆に、我が世の春を謳歌している人物が、権力の座から引きずり下ろされていくのを見極めたい人も少なくないだろう。奈良時代中期に、勢力争いの果てに命を落とした2人の人物がいた。ひとりは法相(性)宗の僧・玄昉(げんぼう、?〜746)、そしてもうひとりは貴族の藤原広嗣(ひろつぐ。広継とも。?〜740)だ。
僧正にまで上り詰めた一方、妬み嫉みも集めていった玄昉
玄昉は717(養老1)年、貴族の阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698〜770)、吉備真備(きびのまきび、695〜775)らと共に唐に渡り、18年間仏教を学んだ。そして時の玄宗皇帝(685〜762)から三品(さんぴん、第三位の地位)と認められ、紫の袈裟着用を許された。そして735(天平7)年、多くの仏像、経文とその注釈書5000巻余りを日本に持ち帰った。その翌年、玄昉は100戸の封(ふ、俸禄。与えられた戸から租税を取り立てることができる)、水田10町、童子8人を賜った。当時の日本国内は天然痘と飢饉で荒れ、皇族や高位の貴族たちも亡くなっていた。そのため、「除災招福」の役割が仏教に強く期待され、玄昉は737(天平9)年に僧正に任じられた。それによって、彼は宮中での仏事を主宰する役割を担うことになる。そうした中、玄昉は文武天皇(683〜707)の夫人で、聖武天皇(701〜756)の母・藤原宮子(みやこ、?〜754)の病を快癒させ、褒美を賜った。また、吉備真備も位が上がった。僧として栄華を極めていた玄昉はいつしか、仏法にそむいているとして、世の人々に憎まれ始めるようになった。
藤原広嗣は時の権力に逆らい挙兵した
一方の藤原広嗣だが、式部卿(しきぶきょう)という要職にあった宇合(うまかい、?〜737)の長子だった。天然痘による宇合の死後、力が弱まってきた一族の再興を目指していたが、急進的だったことから、藤原一族の中でも孤立した存在だった。その結果、738(天平10)年12月に大宰府へ左遷されてしまう。自分の処遇や宮廷の政治運営に不満があったのだろう。2年後の8月に、「天地の災異は時の悪政による!」として、聖武天皇を補佐していた橘諸兄(もろえ、684〜757)のブレーンだった玄昉と吉備真備を除くようにと、上表文(じょうひょうぶん)を提出した。更に翌月、広嗣は近在の豪族や農民の1万人余りを率いて挙兵した。藤原広嗣の乱である。しかし朝廷は1万7000人の兵を派遣し、聖武天皇の勅には、「広嗣は凶悪詐奸で、父宇合にも疎まれたが、自分は庇っていた。また、従兄たちを誹謗するため、都から遠ざけて改心させようとしたが、これも背いた、不孝不忠の裏切り者である。必ず滅びるだろうが、広嗣を斬った者には褒美を与える」とあった。それを受けて広嗣は勅使に対し、朝廷への叛意はないと伝えたが、認められなかった。最終的に乱は失敗し、広嗣は肥前国松浦郡値嘉島(ちかのしま、現・長崎県五島列島)に逃れたものの、捕らえられ、惨殺された。
広嗣を制圧したとはいえ、聖武天皇は戦乱や祟りを恐れ、奈良の平城京を出て、伊賀〜伊勢〜美濃〜近江に行幸した後、山背恭仁(やましろくに)京(現・京都府木津川市)に遷都した。その後紫香楽(しがらき)宮(現・滋賀県甲賀市)や難波(現・大阪市中央区)に宮を置き、平城京には17年間戻らなかった。
順調だった玄昉だが、権力争いに破れ徐々にその立場を弱めた
一方の玄昉は、国家を挙げての写経事業や、741(天平13)年2月には、聖武天皇による、日本全国の国分寺建立に関与するなど、勢力はしばらく継続していた。だが今度は、藤原仲麻呂(706〜764)が朝廷内で力を持つようになってきた。そうした中、聖武天皇は、国家鎮護の大事業として、東大寺の大仏造立に協力するよう、民衆に広く仏の教えを広めていた行基(ぎょうき、668〜749)に協力を依頼する。そして行基はその熱心な働きによって、745(天平17)年1月に、日本初の大僧正という位を与えられた。
その結果、玄昉と吉備真備の立場は、弱まっていった。翌年11月、もともと天智天皇(626〜672)が朝倉宮(現・福岡県朝倉市か)で崩御した母・斉明天皇(594〜661)の追善のために発願し、建立を目指していた観世音寺(かんぜおんじ)の造営が80年近くも滞っていたことを「口実」に、玄昉は造観世音寺別当を命じられる。吉備真備もその4年後の750(天平勝宝2)年に、それまでより格下の、筑前守に任じられた。2人とも、かつての広嗣同様、政治の中心から遠ざけられてしまったのだ。
返り咲くどころか、何から何まで没収されて死んだ玄昉
その後、吉備真備は再び唐に派遣されることとなり、753(天平勝宝5)年の帰途、屋久島に漂着するなど、生命の危機にさらされることもあったが、80歳で亡くなるまで、ある意味しぶとく生き、右大臣にまでのぼり詰めた。しかし玄昉は、そうではなかった。
造観世音寺別当になってからは、それまでに有していた封や財産を没収され、746(天平18)年、都に返り咲くことも叶わず、失意のまま、亡くなったという。玄昉の死は突然のものだったようで、多くの人々は「広嗣の怨念」と受け止めた。例えば、観世音寺完成後の造立落慶の日、法要を取り仕切っていた玄昉を、雷鳴と共に黒雲が取り囲み、天へつかみ上げられた後、その首が奈良・興福寺南大門まで飛んで行った、とか、赤い衣装に冠をつけた男が現れ、玄昉をつかんで空に上り、その体をバラバラに引き裂いて地上に落とした。弟子たちは玄昉の遺体を拾い集めて葬った…などの「怪異譚」だ。もちろんそればかりではなく、死の1年後、玄昉の弟子・善意(生没年不明)が師の恩に報いるために『大般若経』の写経を行うなど、玄昉は決して、その死を「無視」されることはなかった。
玄昉は日本の仏教の発展に寄与した人物として大切に祀られている
こうした「勢力争い」の果ての死は、奈良時代の日本に限ったことではない。だが、そのような2人の死後の「祀られ方」はどうだったのだろうか。
玄昉の場合は、完成を見守った観世音寺の講堂から見て左側、田畑と民家の傍らに、高さ86センチの石碑が「玄昉の墓」として大切に祀られている。自然石に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が浮き彫りになっているもので、14世紀、南北朝の頃に造立されたと考えられている。「宝筐」とは宝物を入れる箱を意味し、「宝」とは仏教で言えばお釈迦様の遺骨、すなわち仏舎利(ぶっしゃり)のことで、「印」は価値の高さのことだ。そして塔の中央部にはおぼろげながら、大日如来を意味する梵字の種子(しゅじ)「バン」が刻まれている。後の時代になって、主に僧侶や貴族階級の人々が、生前に自身のための仏事を行い、死後の冥福を祈る、逆修(ぎゃくしゅ)のためにこのような宝篋印塔を立てることが多々あったことから、もしかしたら玄昉のためのものではないかもしれない。しかし、玄昉の手足や胴体が埋葬されたとされる場所に立てられた「胴塚」という伝承が信じられ、今なお壊されずに残っている。
また、奈良・興福寺における玄昉は、唐から多くの仏像や経典や注釈書をもたらし、日本の仏教発展に大きな貢献を果たした人物として崇敬されている。例えば2年前の5月には、奈良・興福寺に再建された中金堂内の、高さ10m、周囲2.45mの立派な太い柱に、唐の玄奘三蔵(602〜664)などと共に、法相宗ゆかりの14人の高僧のひとりとして、日本画家・畠中光享(1947〜)の手によって、色鮮やかに描き出されたりもしている。
藤原広嗣は正義を貫く意志の強さを有していたと祀られ、現在も地域の人を見守っている
一方の広嗣は、佐賀県唐津市にある鏡(かがみ)神社の二ノ宮に祀られている。『松浦廟宮本縁起』(鎌倉時代末頃成立か)によると、広嗣の怨霊によって、遠い奈良の都にまで災厄が及ぶようになった。それで勅命が下り、745(天平17)年、広嗣の敵だった吉備真備に、「鏡明神」を祀らせた。鏡明神の「鏡」とは、新羅に出兵するにあたり、神功皇后が肥前の松浦山(まつらやま)に登って天神地祇を祀り、戦勝を祈った。その後、不思議なことに、山頂に夜な夜な霊光が現れるようになった。勝利の凱旋に皇后がこの地を訪れた際、近在の村人がそのことを告げたところ、皇后は大いに喜び、山に鏡を捧げ、自分の生霊が長くこの地を鎮めると約束した。それ以来、松浦山は「鏡山」と呼ばれるようになったこと、そしてそれを祀る「鏡神社」のことだ。また聖武天皇はこの鏡神社に、広嗣の霊を慰めるための二ノ宮を建立させ、神号に「大明神」を賜ったという。
更に吉備真備は754(天平勝宝6)年、神田(しんでん、神社のための田)を鏡神社の神宮寺・無怨寺(むおんじ、現・大村(おおむら)神社)に寄進したとも言われている。
かつては8万平方メートル近くあったとされる社領が縮小したり、江戸時代の火災で、社殿や神宝の多くが失われてしまったりしたものの、正義を貫く意志の強さを有していた広嗣にあやかり、心願成就・悪縁退散にご利益がある。そして文武両道・歌舞音曲の神として、今なお地域の人々に崇敬を集めている。
二人は、もしかしたら幸せだったのかもしれない
人は「祀られ方」「葬られ方」が、その人の一生の「集大成」と言われる。確かに生前、何らかの偉業を成した、または多くの人々から愛された人であれば、その死を惜しまれ、手厚く葬られ、後世になっても、その死は悼まれ続ける。観世音寺そばの「玄昉の墓」と「鏡神社の二ノ宮」のどちらがどうだということを「評価」することはできないが、2人が当時、強烈な存在感を放っていたことは間違いない。古今東西の大半の人々は、世の中に「強烈な存在感」を示すことなく、一生を終える。それを思うと、2人は「幸せ」だったのではないか。本人たちにとっては、「幸せな人生」ではなかったかもしれないが…
参考資料
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■北條秀樹「藤原広嗣の乱の基礎的考察 −栄原・長両氏説に接して−」『九州工業大学研究報告(人文・社会科学)』1988年(23-32頁)九州工業大学
■改定つくし風土記制作委員会(社会開発委員会)(編)『改訂 つくし風土記』1986/1989年 社団法人つくし青年会議所
■辻憲男「藤原広継」志村有弘・松本寧至(編)『日本奇談逸話伝説大事典』1994年(793-794頁) 勉誠社
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■公益財団法人古都大宰府保存協会(編)『史跡 観世音寺』2017年 公益財団法人古都大宰府保存協会
■株式会社明広(編)『筑紫路 −ロマンの散歩道 太宰府』2020年 株式会社明広
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■井戸まさえ「コロナ危機の背後で急加速する「ポスト安倍」レース」2020年4月10日『現代ビジネス』
■「松浦総鎮守」 『鏡神社』
■「鏡神社」『唐津市』
■「図書館 貝原益軒アーカイブ 貝原益軒 筑前國續風土記」『中村学園短期大学 中村学園大学』
■「太宰府観光マップ 観世音寺」『太宰府観光協会』
■「太宰府観光マップ 僧正玄昉の墓
■「ストーリーの構成文化財 観世音寺・戒壇院」『日本遺産 太宰府 古代日本の「西の都」〜東アジアとの交流拠点〜』
■「大和をかし話 其24 興福寺 第72話 玄昉は泣いている? −興福寺に法相宗を伝えた僧の哀れな伝説」『うましうるわし奈良』
■「興福寺 中金堂篇 天平にふさわしい色彩で描く「法相柱」の復興」『うましうるわし奈良』
■「大般若経 巻第五十七残巻(善意願経)」『文化遺産オンライン』