宗教が哲学・思想と異なるのは「行」「体験」の存在である。本で学んだ知識だけで宗教を理解するのは難しいだろう。しかし読書には相応の効果があることも事実である。やがてくる親しい人や自分自身にやってくる苦難への備えとしての読書の効用について考える。
アメリカでは仏教が独特な受け止められ方をしている
アメリカの仏教の現状についてケネス・タナカ(武蔵野大学名誉教授)は「ナイトスタンド・ブディスト」(Nightstand Buddhists )というライフスタイルの流行を紹介している。
ナイトスタンドとは寝室の電気スタンドを置く台のこと。一日の仕事が終わり帰宅し、食事や入浴を済ませ、夜、寝る前に仏教や瞑想のついての書籍を読み、瞑想を行う。また講演会などに行き仏教の話を聞き、日々を充実させようという人たちである。
ケネス・タナカによると、彼らは特定の宗派や宗教団体に束縛されることを嫌っており自らを仏教徒とは名乗らない、仏教愛好家というべき層である。アメリカで定着しつつあるマインドフルネス瞑想は宗教色を排したエクササイズとしての受容だが、宗派に属することなく読書とエクササイズだけ、あるいは読書だけで完結する仏教というスタイルもあるのだ。
体験や修行せずに仏教を学ぶことの是非
ナイトスタンド・ブディストは、いかにもアメリカのビジネスパーソンらしいスタイリッシュな仏教との接し方である。しかし真剣に宗教、宗派を信仰している人には軽薄な印象を受けるだろう。本を読み知識を噛りベッドの上で瞑想の真似事をする。それで仏教と言えるのか宗教といえるのか。確かに仏教といえば厳しい修行のイメージがあり、そうでなくても宗教を本で理解するなど無理ではないかとも思う。宗教とは体験に尽きる。言葉を超越した世界こそが宗教が提供する世界のはずである。
空海と最澄の仲違いの原因もそうだった
空海(774〜835 )と最澄(767〜822 )の仲違いもそれが原因のひとつであった。最澄が空海に真言密教の重要な経典「理趣釈経」の貸出を申し出たところ、空海は密教は書物だけで理解できるものでないと断っている。宗教の本質からすればこの件は空海に理がある。空海は書物で学ぶ「筆授」より、直接口伝、修行を持って伝授する「面授」を重んじた。最澄とて研究一辺倒の学者ではない。それは百も承知だったはずだが言い分はあった。日本は古来より中国やインドから書物によって文化を吸収してきた歴史がある。最澄はこうした筆授を面授に劣らぬ価値を持っていた。最澄にとって筆授もまた魂の体験であったのだ。
読書という体験が及ぼす効果
良いと思う本を読み、良い事が書いてあると思えば気分が良くなる。その時だけで終わることもあるが、一冊の本との出会いで人生が変わることもある。
仏教の唯識論には「薫習」という考え方がある。唯識論は人間の意識を8段階に分け、最下層の深層意識を「阿頼耶識」と呼んだ。阿頼耶識の中には過去の思考、行動、体験、記憶など(種子)が残っていて、人格の形成に影響を及ぼすという。薫習とは香の香りが衣服にしみこむことで、良い教えが意識にしみこむことを意味する。阿頼耶識に蓄積された種子が人間を導くというのである。心理学風に、深層意識に体験がインプットされて人格に影響を及ぼすと言い換えてもいいだろう。良い言葉や思想に触れることで心に何かが刻まれることは誰しも体験することである。唯識の教え通りなら、ナイトスタンドで世の喧騒からしばし離れて仏教の教えに親しむ人の深層には薫習がなされている。
少しずつゆっくりと、でも確実に変化をもたらす読書
また、禅の悟りには漸悟と頓悟がある。徐々に悟っていくのが漸悟、ある瞬間に突然悟りを得るのが頓悟である。切った薪が木に当たった音を聴いた瞬間に悟ったなどというように、頓悟の方がいかにも悟りという風情で世上の評価も高い。しかし頓悟には天才のひらめきに近いものを感じる。つまり凡人の及ぶ境地ではない。読書で薫習をすることは、少しずつ悟りを開いていく漸悟に通じるものがある。さらに禅では悟りは一回で終わるのものではなく、何度も悟り直すのだと説く。読書を通じて日々薫習していれば、少しづつでも変わっていくはずだ。これも漸悟には違いない。
いずれ我々は遅かれ早かれ外には出られなくなる。ほとんどの人にとって人生のファイナルステージとは家、もしくは病院である。その時、付け焼き刃的にすがるように宗教に頼っても効果は薄いだろう。ナイトスタンド・ブディズムはその時のための備えでもある。少しづつでも確実に楽しみながら、意識に仏法を蓄えておくのである。
ステイホームブディスト
ナイトスタンドもいいが、休日の昼下りに仏教書を読み、ふと見上げてきれいな夕焼けでも広がっていれば、何か感じることがあるかもしれない。そういう小さな気づきも悟りのひとつと言えないか。優れた書物の優れた言葉を触れることで世界が変わっていく。荒行を積まなくても普通の日々の生活に神仏を見出すことはできるのである。新型コロナウイルス蔓延の状況下を意識と世界を変えるチャンスと捉えることもできる。
参考資料
■ケネス・タナカ「アメリカ仏教」武蔵野大学出版会(2010)