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ある刀工が眠るという太宰府市の宝満宮竈門神社の板碑を調べてみた

美少年キャラに擬人化された名刀の数々が、歴史上の合戦で敵と闘う育成シミュレーションゲーム『刀剣乱舞 -ONLINE-』(2015年)が、主に10〜20代の女性の間で大人気を博してきたことから、ここ数年、「刀剣女子」が国宝や重要文化財などの名刀目当てに、博物館や美術館に殺到していると話題になっていた。「日本人は飽きっぽい」と言われ、また、新型コロナウィルス感染拡大を受け、日本全国の博物館や美術館は臨時休館を余儀なくされている今、「あの頃」の熱気は、今なお続いているのだろうか。


宝満山の麓にある竈門神社に残る幾つかの石造物と板碑

福岡県太宰府市の東北部、筑紫野市との境に聳える、標高868メートルの宝満山(ほうまんざん)、別名・竈門山(かまどやま)の麓に鎮座している竈門(かまど)神社下宮の参道脇に、石造物が多く立てられている一角がある。そのうち、「日あけ地蔵堂」から見て左奥に、花崗岩でつくられた板碑がある。補修されているものの、高さ163cm、最下部の幅は38cm、最大厚30cmの、頭部を山形にし、裾開きの形をなしている。鎌倉時代後期から南北朝時代に立てられたものと考えられている。

「板碑」といえば「関東型」と言われる、秩父産の緑泥片岩でつくられた巨大な板碑が知られるが、太宰府市内に現存する板碑の大半が50cm以下の小型のものであるため、このように大きなものは極めて珍しいという。何らかの造立目的が彫られていた可能性は大きいが、判別不能だ。しかし、不動明王を表わす梵字の種子(しゅじ)「カーン」と、その下には蓮座が見える。また、「カーン」の下には、休止符の梵字「ダ」がついていることから、仏・菩薩などの功徳を衆生に施すことを強調する意味になるという。


板碑は鎌倉時代に始まった刀工の二代目の墓だった

そしてこの板碑だが、板碑の隣に、「刀工金剛兵衛源盛髙発祥之地」と彫られた石碑がある。刀工の「金剛兵衛源盛髙(こんごうひょうえみなもとのもりたか)」とは、鎌倉時代後期に始まる刀工の一派の二代目以降を継いだ人物の墓だと考えられている。

金剛兵衛一派の刀に特徴的なのは、中心(なかご。刀のうち、刃がついておらず、柄に収められた部分。たいていの場合、刀工の銘が刻まれている)の先端が山形になっている「卒塔婆頭(かしら)」であることから、貝原益軒の『筑前國續風土記』(1709年)巻7、29によると、「金剛兵衛」の板碑の形が、金剛兵衛一派の中心と同じ形につくられたという。そして「金剛」とは、竈門神社の背後に聳える宝満山のことを「金剛宝満」とも称していたことによる。


初代は盛國、板碑の主である二代目は盛髙と名乗った

初代の盛國(もりくに)は博多に住んでおり、もともとは修験道がさかんだった宝満山の山伏だった。そしてその父親は備中(びっちゅう、現・岡山県西部)で鍛冶を生業としており、母親は刀工の一派、「左文字(さもんじ)」の末流の娘だった。そして、現在の竈門神社下宮近辺の有智山(うちやま)周辺に住んでいた二代目以降の盛髙以来、跡取りは代々「盛髙」と名乗ったという。

また、金剛兵衛の先祖は正應(しょうおう)という者で、末の子どもを宝満山の平岩坊の養子にした。それから12代後の金剛兵衛には跡取りの男子が生まれなかったため、平岩坊の子どもを養った。その子が後の岩平金剛兵衛で、多くの宝刀をつくった、という話も伝わっている。

これらはいずれも伝承であり、竈門神社下宮に残る花崗岩製の板碑と、勢力範囲が竈門山近辺にとどまらず、筑前(現・福岡県北西部)、豊後(ぶんご、現・大分県)、筑後(現・福岡県南西部)や肥前(現・佐賀県、壱岐・対馬以外の長崎県)など、北部九州一帯に広がり、多くの名刀を残した一派・金剛兵衛における「刀工金剛兵衛源盛髙」との関連については、明確なことは不明だ。


初代・盛國と宝満山修験道が竈門神社の存立に深く関わった

金剛兵衛源盛髙の父・盛國、そして竈門神社の存立に深く関わっているのが、宝満山修験道である。修験道とは、「山」そのものや、山中の「巨石」などを信仰する山岳宗教をベースとして、シャーマニズムや中国の道教、陰陽道の影響を受けつつ、仏教の真言宗や天台宗などの密教と、日本独自の神道と混じり合った宗教で、平安時代末期に成立した。


宝満山で修験道が流行した理由とは

そもそも何故、宝満山で修験道が興隆を極めたのか。それまでの宝満山は、地域の人々の生活を潤してきた御笠川(みかさがわ)の水源であったことから、その水を司る水分(みまくり)神としての役割を果たしていた。しかし7世紀後半頃に現在の九州圏の政治・経済・軍事を扱った大宰府政庁が置かれた。そしてその東北部、すなわち鬼門に位置する宝満山は、大宰府政庁を護る山としての役割を担うことにもなった。それを裏づけるように、板碑が位置する竈門神社下宮近辺から、奈良時代(710〜794)の「鴻臚館(こうろかん)式瓦」が出土していること、そして最澄(766/767〜822)が804(延暦23)年の渡唐前年に大宰府に下り、山麓に建てられていた神仏混淆の竈門山寺(大山寺(だいせんじ)、内山寺(だいせんじ)、有智山寺(うちやまでら)とも言う)に航海の無事、そして入唐求法(にっとうぐほう)の成功を祈り、薬師仏4体を彫ったことから、修験道成立以前から、広く知られた信仰の場であった。しかも、「わざわざ、ここ」なのは、竈門神社の祭神が、海神の娘である玉依姫(たまよりひめ)だったことから、最澄のみならず、空海(774〜835)や遣隋使・遣唐使の使者たちが航海の無事を祈り、それが叶えられていたためだった。

頂上付近に存在する、神霊が宿っているとされる3つの「竈門岩」があること。または山の形がかまどの形に見え、常に雲霧が漂っていることから、かまどで煮炊きをして煙が上がっているように見えることから竈門山とも呼ばれた宝満山の「竈門神」は840(承和7)年に従五位上、850(嘉祥3)年に正五位上、896(寛平8)年に正四位下、879(元慶3)年に正四位上と、神階が上がっていった。それは最澄が興した天台宗の勢力拡大、そして九州圏における国の大拠点であった大宰府政庁の官人たちとのつながりの深さによるだろう。しかし「政治」的に強大な力を有する信仰の場であったことから、宝満山は必ずしも「平和」「安定」していたとは限らなかった。

370もの坊舎が存在するほどの勢力を誇っていたという平安末期には、豊前の宇佐(うさ)八幡宮・筑前の筥崎(はこざき)宮・都の石清水八幡宮などの八幡社や比叡山延暦寺との力関係が複雑化し、時に騒擾が巻き起こることもあった。


紆余曲折あり宝満山修験道は禁止され竈門神社だけが残った

更に鎌倉時代に入り修験道が確立されると、今度は現在の福岡県田川郡添田町と大分県日田市・中津市の県境に聳える、九州圏における最大の修験道の霊場・彦山(英彦山、ひこさん)と緊密な関係を築いていくが、同時に八幡社や比叡山同様、勢力争いも生じていた。次に戦国時代になると、世俗を離れ、日々厳しい修行を行っていたはずの山伏たちは、地域の豪族たちの争いに巻き込まれ、兵力として組み込まれる羽目となった。その結果、敵方から山中の堂舎が焼き払われ、貴重な古記録や工芸品なども失われた。

豊臣秀吉(1537〜1598)による九州平定後、秀吉自身や小早川隆景(1533〜1597)、江戸時代に筑前を治めた黒田家の歴代藩主らによって、宝満山の修験道は復興を遂げたものの、往時の勢いは失われ、修験道場、地域の人々の信仰の場として、存続した。しかし、明治時代の廃仏毀釈によって、修験道そのものが禁止され、竈門山寺は廃寺となり、竈門神社が残るのみとなった。


刀工の板碑であるかどうかは明らかではないかもしれないが…

板碑がつくられた時期は恐らく、宝満山の修験道が隆盛を極めていた時期だと考えられ、墓碑を含む「刀工金剛兵衛源盛髙」ゆかりのものか否かはともかく、修験道の山伏か、竈門山寺の僧侶か、竈門神社の神人か、宝満山を奉じる地域の有力者か、いずれにせよ、不動明王の功徳を衆生に施すことを強く祈るために立てられたことは間違い無いだろう。


金剛兵衛一派の刀剣の特徴

修験道における修行は一般に、穀類を断ち、山野の木の実を食する「木食行(もくじきぎょう)」、山々を踏破する「山林抖擻(さんりんとそう)」や、山中の洞窟に籠もること、断食、不眠不動、水行(すいぎょう)、火の中で煩悩を焼き尽くす「火生(かしょう)三昧」、そして地下に籠る土中入定(どちゅうにゅうじょう)、最終的には世の人々を救うために自身の命を捧げる捨身(しゃしん)に至る。このような、我々の日常生活からは想像を絶する厳しい修行を経て、山伏は古い自分を捨て去り、新たに超自然的な力、「験力(げんりき)」を得て生まれ変わるという。もともとは宝満山の山伏であったとされる初代の「金剛兵衛盛國」も、こうした修行に邁進していたことだろう。そうした背景を有する金剛兵衛一派の刀剣の特徴としては、先に紹介した、中心の先端の形が卒塔婆のように山形になっていることに加え、

・刀に見られる波模様、「刃文(はもん)」が、直線的に伸びた「直刃(すぐは)」で、多くが細直刃(ほそすぐは)である。

・日本刀は一般に、まっすぐな刀ではなく、ゆるやかなカーブを描いた形になっている。室町〜戦国時代の刀は通常、刀の根元と先端の長さにあまり差がない、反り(そり)が浅いものが多かったが、金剛兵衛のものの場合、反りが高い。

・製作の際に金属を打った跡、「地鉄(じがね)」には、木材の板のような肌合い(板目)が流れ、その中に、ややまっすぐに通った木目(きめ、柾目(まさめ))が混じっている。

などがある。「刀剣マニア」でなければわからない「違い」ではあるが、「わかる人」には、他の刀工がつくったものとの違いが明確で、「金剛兵衛のもの」と見分けることができるのだろう。


最後に…

日本刀は人を殺傷する危険な「武器」であることは言うまでもないが、このように独特の美をたたえ、「刀剣女子」を含む後世の人々をも惹きつける「芸術作品」でもあった。修験道の聖地・宝満山、その麓に位置する竈門神社下宮に残る、「刀工金剛兵衛源盛髙」にゆかりがあるとされる板碑、そして刀工「金剛兵衛」一派が残した日本刀…全盛期を思うと、失われたものは実に大きいが、だからといってそれが「無」、つまり「何もないこと」を意味するわけではない。たとえ形やものの見方が時の流れによって大きく変転しても、普遍的な力や魅力を有するものはいつまでも人の心をとらえ続ける。場合によっては、リアルタイムにおいては全く価値が見いだされていなかったものが、何十年、何百年も後の「発掘」によって、そうしたものが「発見」される場合もある。それゆえ、心おきなく、先人たちの偉業を偲ぶことができる日々を取り戻すことができることを、今、心より祈念している。


参考資料

■森弘子「宝満山の開発と歴史的発展」中野幡能(編)『山岳宗教史研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(206-225頁)名著出版
■中野幡能「宝満山修験の末寺・末社組織」中野幡能(編)『山岳宗教史研究叢書 13 英彦山と九州の修験道』1977年(226-249頁)名著出版
■改定つくし風土記制作委員会(社会開発委員会)(編)『改訂 つくし風土記』1986/1989年 社団法人 つくし青年会議所
■太宰府市史編集委員会(編)『太宰府市史 建築美術工芸資料編』1998年 太宰府市
■「企画展示 No. 270 筑前の刀工 金剛兵衛」『福岡市博物館』2005年11月15日〜2006年1月22日
■恒遠俊輔『修験道文化考 今こそ学びたい共存の知恵』2012年 花乱社
■「【関西の議論】 「刀剣女子」が武士の魂・日本刀に心酔する理由…ブーム拡大、非日常の美しさにハマる」『産経新聞』2018年3月20日  
■高橋学「太宰府の文化財 410 史跡宝満山周辺の石造物 《板碑(いたび)》 −伝金剛兵衛(でんこんごうひょうえ)の墓 −鎌倉時代後期〜南北朝」太宰府市総務部経営企画課『広報だざいふ』2019年7月1日(40頁)太宰府市
■「」『熊本県伝統工芸館』 
■『宝満宮 竈門神社』https://kamadojinja.or.jp
■「図書館 貝原益軒アーカイブ 貝原益軒 筑前國續風土記」『中村学園短期大学 中村学園大学』
■『刀剣博物館
■『バーチャル刀剣博物館 刀剣ワールド


ライター 鳥飼かおる
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