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義理としがらみで命を落とした戦国武将を祀る博多の吉塚地蔵を調べてみた

JR九州・鹿児島本線/篠栗線の吉塚(よしづか)駅東口を少し歩くと、元禄年間(1688〜1704)に妙蔵尼(生没年不明)によって建てられたという、小さな地蔵堂がある。

そのたたずまいに一瞬、「どこにでもある、街中の小さなお地蔵さん」を思い浮かべてしまうのだが、この地蔵堂は、義理を重んじ、結果的に命を落とすことになった悲劇の戦国武将、星野吉實(よしざね、1538〜1586)とその弟・吉兼(よしかね、1551〜1586)の供養のためのものだ。


吉塚という名前の由来

そもそも「ここ」に地蔵堂があるのは、彼らにとって敵方であった立花統虎(むねとら)こと、後の柳河(やながわ、現・福岡県柳川市)藩初代藩主・立花宗茂(むねしげ、1567〜1643)が「武将の尊崇」として、彼らの首を祀った塚を立てていたことによる。一説には、塚は現在地よりももっと博多湾側にあったとされるが、当初「吉實塚」と呼ばれていた。それが「吉塚」となり、いつしか塚がある一帯までもが「吉塚」と呼ばれるようになったという。


国のために自らを捧げることが美德されていた

1893(明治26)年には、地蔵堂そばに「星野兄弟戦歿の追悼記念碑」が建てられた。それは「悲劇の武将」を悼むばかりではなく、「日本」という国を欧米列強に居並び、更にそれらを凌駕する近代国家化を目指していた政治家や官僚、そして「時代の空気」から、当時の政府中枢に多くの人材を輩出していた「島津方」への義理を守ったばかりではなく、たとえ不利な状況であってもそれから遁走することなく、国のために自らを捧げることが美徳と考えられ、顕彰されたこともあるだろう。


吉塚地蔵堂に祀られている星野兄弟の成り立ち

星野兄弟の生家・星野家は、1226(嘉禄2)年から18代に渡り、現在では「八女(やめ)茶」で知られる、現在の福岡県うきは市から八女市星野村一帯を領し、南北朝の頃は肥後(現・熊本県)の菊池氏らと共に、南朝方についていた豪族だった。身長はおよそ197cm、武芸や歌道も巧みな「文武の将」であったが、信義に篤く、臣下や領民に慕われていたという吉實が星野家14代当主となった頃の九州は、戦国の争乱の中にあった。それまでの星野家は、大友氏、龍造寺氏、島津氏と去就を変えつつ、家を守ってきた。しかし、大家(たいか)同士の「勢力争い」の渦に、吉實らが巻き込まれていくことになる。


当時、勢力争いが活発だった

1579(天正7)年以降、九州圏最大の勢力を誇っていた大友氏の勢力に陰りが生じ始めていた。そこに九州南部の島津氏と、九州北西部の龍造寺氏との間で対立が生じる。しかし1584(天正12)年、龍造寺隆信(1529〜1584)は島津氏と、肥前国(現・佐賀県)を統べていた有馬氏との連合軍に敗れた。そこで島津義久(1533〜1611)は一気に九州制覇を目指し、大軍を率いて進軍を続けた。この状況に大友宗麟(1530〜1587)は1586(天正14)年3月、自力で島津氏に対抗するのは不可能だと判断し、当時の関白・豊臣秀吉(1537〜1598)に謁し、島津討伐を直訴した。大友氏を配下に収めた秀吉は、両者の間に入る形で和平勧告を行うが、島津方は取り合わない。北上を続ける島津軍は同年7月に筑前(現・福岡県)の太宰府に達し、大友方の武将・高橋紹運(じょううん、1548〜1586)が守る岩谷(いわや)城を包囲した。


星野兄弟はどう立ち回ったか

そこで星野兄弟だが、現在の福岡県甘木(あまぎ)市一帯を拠点としていた秋月種実(あきづきたねざね、1548〜1596)らと共に島津方に従い、一族郎党500騎余りを従えて、太宰府に着陣した。主力の薩摩軍に加え、星野兄弟のような、九州各地からの援軍が総勢5万にも及んだとされる島津軍は7月14日、岩谷城を包囲し、猛攻撃をかけ、降伏を求めた。島津方に450人の犠牲者を出すほど激しく抵抗した紹運だったが、最終的に7月27日に攻め落とされた。

島津方は更に北上し、軍門に降らない立花統虎が立て篭もる立花城(現・福岡県糟屋郡新宮町、久山町、福岡市東区)に迫った。しかし島津方は岩谷城の戦いで疲弊していたことから、和睦開城を求めた。しかし、岩谷城で滅ぼされた高橋紹運の長子で、当時若干19歳の統虎は断固としてそれを拒否し、「弔い合戦」の意向を示した。

膠着状態の島津方だが、立花城の近在にあった、鎌倉時代初期に鎮西守護のために築かれていた高鳥居(たかとりい)城(現・福岡県糟屋郡篠栗町)に星野兄弟を置き、警護を命じた。それを受けて吉實らは、当時は無住の荒れ城だった高鳥居城を「草城」と言い表しつつ、数百人の大工らを入れて大修理を行い、急いで食糧や武器を運び入れ、8月20日に500の兵を率いて入城し、堅い守りを誓っていた。


兄・星野吉實の最期

その間、九州征伐を目論んでいた秀吉側は、安芸国(現・広島県西部)の毛利輝元(1553〜1625)らを派遣し、統虎支援に向かっていた。8月16日に毛利勢が九州に上陸した。そこで島津方の諸将たちの多くは、秀吉側に寝返ろうと画策したり、自領へと退却したりする者も出始めた。その状況を受けて、立花城を包囲していた島津軍は、8月23日には一斉に撤退した。そして25日には立花・毛利連合軍、そして毛利方の小早川隆景(1533〜1597)の援軍も加わった、総勢700の兵が高鳥居城に押しかけた。それに対して星野兄弟と秋月氏らの残党たちは、島津氏への義理ゆえに城に踏みとどまり、鉄砲や弓、果ては大石や大木を落として徹底抗戦した。しかし、城に火が放たれた。吉實は大将として本丸から陣頭指揮を取っていたものの、味方は次々と死んでいく。しまいには一騎討ちの格好で戦ったものの、立花方の立花二郎兵衛(後の統春、1564〜1590)と十時伝右衛門(生没年不明)に討ち取られた。その際、吉實は死期を悟って数歩退き、石の上に腰をかけたまま動かず、伝右衛門の白刃を静かに受けて絶命したという。現代ならば、「まだまだ、これから」の49歳。

辞世の句は「草城に心おく露ふみわけて消えゆく野辺の道しるべせむ」だった。


弟・星野吉兼はというと

弟の吉兼も毛利方の横山弥三(生没年不明)に討たれた。高鳥居城は、たった2時間余りで落城した。

「弔い合戦」を叶えたいくさの後、星野兄弟の首実検を終えた統虎は、2人を手厚く葬り、塚を立てた。秀吉から、「まことに九州第一の武士である」と激賞され、後々まで重用され、筑後柳河を与えられた。幸いなことに統虎こと宗茂は1603(慶長8)年、天下取りに最終的に勝利した徳川家康(1543〜1616)によって、江戸に幕府が開かれてからは、秀吉方に属していたことから、星野兄弟同様、時代の空気に翻弄される格好で、領地を没収される憂き目にあった。しかし智謀に富み、「時代を読む」能力に秀でていたこと、または星野兄弟を供養した功徳だろうか。自刃や謀殺などといった非業の死を遂げることなく、柳河藩に返り咲き、初代藩主となったのである。

星野吉實・吉兼を祀った吉塚地蔵堂だが、明治〜大正〜昭和〜平成〜令和と時を経、「吉塚」のみならず、「日本」そのものが大きく変貌を遂げてきた今もなお、地域の人々に守られる形で、毎月24日が祭礼、5月・7月・10月には大祭が行われるなど、鎮魂の祈りが捧げられている。


義理やしがらみで亡くなった人に対する他者からの目

義理やしがらみに縛られ、自分だけが企業などの組織における汚職などの「疑惑」、または過失や失態そのものをたったひとりで背負い込む格好で自殺したり、失踪してしまったりする人は少なくない。

特に後者の場合は、その人の生活圏から遠く離れたどこかの山奥などで命を終え、誰にも発見されることもなく、土に還ってしまっている場合もあるだろう。そうした人々が迎えざるを得なかった理不尽な死を、今現在生きている我々が、あれこれと「評価」することは、決していいことではないのかもしれない。


供養されていることが何を意味するか

しかし「吉塚」と名前が残り、供養が今なおなされているということは、吉實・吉兼兄弟の一生は、虚しいものだったとは言えないのではないか。もちろん、義理やしがらみを大切にすることよりも、自分を守ることだけを考え、どんな「汚い」「ずるい」ことをしてでも、ふてぶてしく生き延びることが「いい」という考え方もある。

しかもそういう人であっても、後々、時と場合によっては、「智将」「臨機応変」「融通無碍」「深慮遠望の人」などと褒め称えられたり、更には地名にその名を残し、塚や地蔵堂などが建立されたりして、地域の人に供養され続けることもあるだろう。「潔さ」と「ずるさ」はいずれも、人が生きるにあたっては、時に必要な身の処し方でもあるからだ。

ただそこで、自分ならどうするのか。「命」の際まで追い詰められ、究極の選択をしなくてはならなくなったとき、星野吉實・吉兼のように死を厭わず、義理を守り抜いて生きるのか。それとも、島津方にいたにもかかわらず、天下の秀吉方に寝返ろうとしたり、敵前逃亡してしまったりした他の武将たち、または星野兄弟の敵方・立花統虎のように、時宜を敏感に捉えて、ヒラリと身をかわすのか。


最後に

東京・神奈川・埼玉・千葉・大阪・兵庫・福岡の7都道府県に対して発令された、新型コロナウィルス感染拡大防止のための緊急事態宣言に多くの人々が憂い戸惑っているが、人それぞれの人生における「緊急事態」は、これだけとは限らない。今後、将来において、人によっては「新型コロナウィルス感染」よりも重要・深刻な状況に置かれる場合も往々にしてある。そうしたときに、自分なら、どうするのか。「自分のことだけで精一杯!」なのか。それとも、義理を重んじ、たとえ不本意でも、自分以外の人のために行動するのか。吉塚地蔵堂ゆかりの戦国武将、星野吉實・吉兼兄弟の死は、現代を生きる我々の人生航路の舵取りに対しても、厳しく問いかけている。

【参考資料】
■星野村(編)『征西将軍宮御遺跡星野氏の勤皇と星野村』1934年 星野村
■石瀧豊美「町史のひとこま 第1回 星野兄弟の首塚」福岡県須恵町役場広報室(編)『広報すえ』1980年7月号(12頁)福岡県須恵町役場
■吉永正春『九州の古戦場を歩く』1986/1998年 葦書房
■「博多湾の松原展」『福岡市博物館』2001年9月26日〜11月25日
■吉村靖徳・中西義昌(編)『須恵町文化財調査報告書 第8集 筑前高鳥居城跡 福岡県糟屋郡須恵町所在山城の調査』2003年 須恵町教育委員会
■空閑龍二『福岡歴史がめ煮【博多区・中央区編】』2009年 海鳥社
■「高鳥居城」『攻城団』 
■「星野氏墓所」『八女市ホームページ』



ライター 鳥飼かおる
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