昔からよく言われていることがある。人は死期が近くなると、自分より先に亡くなっていた親、配偶者、友人などが夢の中に現れて、にこにこと笑いながら手招きをしているというものだ。または、事故で瀕死の重傷を負ったときや、脳疾患などで突然倒れ、意識を失ってしまったとき、どういうわけか、今まで見たことも、行ったこともない美しい花園を歩いている。または、自分の人生が走馬灯のように、小さい頃から現在まで、映画のように目の前を流れていく。
死期が近くなると不思議な夢を見るというが
蕩然とそれらにひたっていると、突然、自分と知己がある人々や「神様」「仏様」「天使」みたいな人が現れ、「ここはお前の来るところじゃない!早く帰れ!」と激しい声で怒鳴りつける。その勢いに押されてびっくりして、我に返ると、自分は救急病院のベッドに伏せっていることに気づく。そして自分のことを家族や医師、看護師らが心配そうにのぞき込んでいたり、泣いていたりする。しかし自分が目を開け、意識を取り戻したことに人々は大喜びで、「助かった!」「大丈夫!」と歓喜の声を上げ、自分にすがりついてくる…・
果たして本当に、人は死期が近くなると、このように不思議な夢を見てしまうものなのだろうか。
元日本地理学会会長 奥野隆史とは
1932(昭和7)年、東京・神田の古書店に生まれ、1957(昭和32)年に東京教育大学理学研究科博士課程(現・筑波大学大学院)を修了後、1969年から2003年まで34年に渡り、地理学の研究・教育に関わってきた奥野隆史は、遺作となった100ページにも及ぶ論文、「筑豊(ちくほう)炭田地誌考」の結言において、「本稿作成中に次のような夢をみた。この夢を持って結言の代わりにしたい。夢なのでタイムスパンはでたらめである」と断り、冒頭の序言の中で「筑豊炭田」を研究対象として選択した理由として、「炭田の成立・発展・消滅に至る過程がかなり明確であり、周辺地域は企業城下町的性格を多分に有する」と地理学者らしく断った後、「わが国最大の炭田消滅に対する一篇のレクイエム」として、自身が追求し続けてきた分析的地理学を完成させたのである。
奥野が見た夢とは、福岡県の東北部であり、かつての筑前(ちくぜん、旧・福岡藩)と豊前(ぶぜん、旧・小倉藩)の藩域を占め、遠賀川(おんががわ)流域に広がる、面積およそ787平方キロメートルにも及んだ、日本最大の石炭産地・筑豊炭田の成立・発展・消滅に至る過程が、あるひとりの人物を「主人公」として、展開していたものだった。
元日本地理学会会長 奥野隆史が見た夢とは
赤池町〔あかいけまち。現・福岡県田川郡福智町〕と頴田町〔かいたまち。現・福岡県飯塚市〕の境に小峠〔ことうげ〕といわれるところがある。そこに2人の男が歩いてきた。克平という名の14、5才の少年は後向〔あとむき。明治期の採炭は、2人組で行なった。後ろについて、先山(さきやま)のサポートを行う〕らしく、シャベルを持っている。40がらみの弥平という男は先山〔石炭採掘の際、先陣を切って地下を掘り進める役割を果たす〕らしくつるはしを2本持っている。親子ではないらしい。
“なあ、克平。お前穴ばかり入ってとったら〔入っとったら=入っていたら〕偉うなれんばい〔=偉くなれないよ〕。学校へ行き〔=行きなさい〕。直方〔のおがた〕で火薬を使う方法ば〔=を〕教えてやんしゃあ〔=教えてくれる〕とこ〔=旧・筑豊鉱山学校〕があるえな〔あるげな=あるそうだ〕”
“うん、ばってん〔=だけど〕、おら〔=おれ〕がおらんこと〔おらんごと=いなく〕なったら石〔=石炭〕取れんばい〔=取れないよ〕”
“おれ、どっかのヤマ〔=炭鉱〕で使ってもらうばい〔=もらうよ〕”
或日、直方にまで轟く爆発音が聞えた〔=聞こえた〕。克平は音の方へ懸命に走った。悪い予感がした。弥平が働いている豊国(ほうこく)炭鉱〔福岡県田川郡糸田町〕だった。三日三晩寝ずに探したが無駄だった。
“天皇様がわしら虫けらにお金ばくれんしゃったよ〔=お金をくれたんだよ〕。わしらも人間になったとよ〔=なったんだよ〕”
克平はそれを聞いて無性に悲しかった。
戦争になった。
克平は直方のかつての恩師への年賀の挨拶を欠かすことはなかった。昭和19年、去年の正月には、
“先生、来年も会えますね”
“勿論だよ”
といってくれた人はどこにもいなかった。涙が滴り落ちた。
克平は定年を迎えて退職になった。退職金を持って無性に小峠に行きたくなった。腰を下す〔=下ろす〕と、正面は自分が務めていた炭鉱〔明治鉱業赤池炭鉱のことか〕の大煙突が真っ二つに折れている。右を見ると石灰石にまみれた香春山〔香春岳、かわらだけのこと〕第一峰〔一の岳のこと〕が見えた。
“おれが若かったら、伊吹信介〔筑豊炭田を舞台とした五木寛之の小説『青春の門』(1970年)の主人公〕のようにオートバイぶっ飛ばして東京へ行くんだがな”
“ところで、おれはどこで生れた〔生まれた〕んだ”
彼の生まれた所は奇しくも小峠の右下にある林ケ谷〔りんがだに、現・福岡県田川郡福智町〕というかつて狸掘り〔主に江戸時代並びに明治初期に行われていた、人力かつ、無秩序な石炭採掘〕が行われた所であった。
奥野隆史は論文を仕上げるために忙しい中、福岡に通い続けた
奥野の追悼文を記した地理学者の村山祐司によると、奥野はこの論文を仕上げるために、群馬県にある上武大学に勤める多忙な日々を縫って、フィールドワークと文献収集のために、何度も福岡に足を運んだという。今現在における科学的根拠はないが、奥野のそうした熱心さゆえに、15世紀半ば過ぎから、1976(昭和51)年の貝島大之浦炭鉱の閉山に至るまで、実に多くの人々の血と汗と涙や喜怒哀楽をもって稼働していた筑豊炭田という「場所」に宿る地霊(ちれい、genius loci)が奥野に宿り、その栄枯盛衰を、死期が近くなっていた奥野の夢の中で「克平」の姿をもって、現したのではないか。
末期医療ロボットが快適な死の提供をしてくれるかもしれない
1982年に台湾で生まれ、現在はアメリカ・サンフランシスコを拠点として活動している現代アーティストでITエンジニアであるダン・K・チェンは、人間と機械が親密な関係を築くことができるか、をテーマに、『末期医療ロボット』(2018年)を制作した。それは、医師の許可を得た上で、死期が迫っているものの、看取る者が誰もいない患者の腕をさすりながら、「ご家族・ご友人が来られず残念ですが、快適な死をお迎えください」と、アーム状のロボットが、患者を慰めるというものだ。
AI技術が今後更に進んでいくことは言を俟たないが、このロボットを動かすプログラムに、ある人の人生における趣味・好み・今までになしてきたこと…などの大量の文書・音声・画像データを組み込むことで、奥野が見たような「夢」をVR映像で見せ、死期が近づいた人が、苦しんだり怖がったり、孤独な気持ちになることなく、「快適な死」を迎えさせることができるようになるかもしれない。
必ずしも悪いとは言い切れない
もちろんこうしたAIシステムは、「機械」ゆえに「無味乾燥」かつ、「本物」ではないという反発、更には、「人間が機械に支配される!」という危惧もあるかもしれない。しかし、AIによる、ある人の最期のために夢を見させるヴィジョンをVRで展開させることが、その人の最後のひとときを心穏やかに過ごさせるものであるとしたら、決して「悪い」ものではないのではないか。しかも、もしもその人に、文章を書き記したり、言葉を残す「気力」「体力」があれば、奥野のように、生前、自分が愛着を持っていたり、とことんこだわっていたある特定の「場所」、または出身地や、病に倒れるまで住んでいたところの地霊が示したかのような、「夢」「物語」を残し得るかもしれない。
しかもそうした「夢」を、身内を含む、残された者たちが後で見聞きすることができるとすれば、その人が生きた人生や考えてきたことに対して、更なる思いを深めることもできるのだ。もちろん、人によっては、誰にも知られることなく、心の奥底に隠したままでいたい秘密や失敗、絶対思い出したくない「黒歴史」があるかもしれない。しかし、できることなら死の間際には、たとえ「黒歴史」であっても、それも自分の人生だと肯定して、「穏やかに」死にたいものである。
参考資料
■永末十四雄『筑豊 石炭の地域史』1973年 日本放送出版協会
■筑波大学地球科学系(編)「奥野隆史先生略歴・著作目録」『人文地理学研究』第20号 1996年(1-6頁)筑波大学地球科学系
■奥野隆史「筑豊炭田地誌考」上武大学ビジネス情報学部(編)『上武大学ビジネス情報学部紀要』第1巻 第2号 2003年(1-100頁)上武大学ビジネス情報学部
■村山祐司「奥野隆史先生の御逝去を悼む」公益社団法人日本地理学会(編)『地理学評論』第77巻 第9号 2004年(ⅰ-ⅱ頁)公益社団法人日本地理学会
■「『人生の最期』の7日間に起きる知られざる現象 名医が教える不思議な世界」2019年10月8日 『東洋経済ONLINE』
■森美術館(編)『未来と芸術 AI、ロボット、都市、生命 −人は明日どう生きるのか』2019年 美術出版社
■「筑豊炭田について」『直方市石炭記念館』
■『Dan Chen』
■「未来と芸術 AI、ロボット、都市、生命 −人は明日どう生きるのか」『森美術館』